河川法改正と淀川水系流域委員会-木曽川水系流域住民としての雑感-① |
~1995年の「ダム等事業審議委員会」のデジャヴ~
今般の「淀川水系河川整備計画」策定に関する当会の見解は前に記述した通りである。
焦点ではあっても個別のダム計画-大戸川ダム計画-には言及していない。「大戸川ダム計画」の是非(特に洪水調節「効果」)については、淀川水系流域委員会委員及び淀川水系流域委員会をウォッチしてきた市民の皆様の水準に遠く及ばない(及ぶはずもない)。言及することはさすがに憚られる。
初め予算的な意味で「大戸川ダム凍結」と出した近畿地整の発表に浮かれた(?)報道も、4月8日の 第85回淀川水系流域委員会を受けて、随分、違う方向になった。
4月9日付けの京都新聞の記事(PDFファイル版)
その記事中に宮本博司氏の評がある。「大戸川ダム凍結の記述がない。0点」 「淀川水系流域委員会」の実質的”設置者”であり、国交省退職後に「淀川水系流域委員会」委員公募に応募し、近畿地整の「淀川水系河川整備計画原案」提示のときに委員長を務めていた宮本氏。
「0点」評価せざるをえなかったことには、無念の思いもあったかもしれない。さまざまな思いが交錯しているだろう。
「淀川水系流域委員会」設置は1997年河川法改正を体現する先駆的実践であった。
この委員会は、単に一水系の河川整備計画策定の問題ではなく、まして単に「個別のダム事業の是非」の問題でもない、もっと普遍的意味を持っていた。
だから、淀川水系流域住民ではない私もノコノコと傍聴に行き、傍聴に行ったら必ず「傍聴者発言」をし、意見書等も出してきた。
◇ ◇
今年に入って、河川局治水課が「ダム事業プロセス検証タスクフォース」なるものを立ち上げている。
第1回(09.1.22)資料
第2回(09.3.27)資料
この「ダム事業プロセス検証タスクフォース」なるものの設置を耳にしたとき、私は一種の既視感(デジャヴ)に襲われた。1995年の「ダム等事業審議委員会」である。
(上記「第1一回ダム事業プロセス検証タスクフォース」資料3の7ページ参照。ダム審→河川法改正の流れのいったんが垣間見える)
反対運動のハの字もない徳山ダム事業も対象になった。本体工事着手が遅れに遅れた上に、同じ水系の水資源開発施設・長良川河口堰への批判が強かったからであろう(長良川河口堰に目一杯予算を使っていたから事業が進捗していなかった、というほうが正確なのかもしれないが)。
徳山ダムは揖斐川上流の巨大ダムである。揖斐川流域の中心都市は大垣市である。大垣市住民として、何か声を上げなければならなかった(でもって、「徳山ダム建設事業審議委員会(徳山ダム審)の第1回会合=1995.12.20」直後の、1995.12.25に、大垣市民4人で、大垣駅前ビラ撒きを行って、当会=「徳山ダム建設中止を求める会」は発足した)。
言ってみれば「河川行政を改革したいと願う若手・中堅河川官僚の『陰謀』によって『ヤクザな水商売』に首まで浸かる羽目になった」のである。
上田武夫代表は、1970年代に「長良川を自然教育河川に」という形での(長良川河口堰建設への異論を唱える)関わりをもっていたが、他の3名は長良川河口堰反対運動への関わりは薄かった。直接、河川管理者(河川官僚)とやりとりする経験は皆無であった。
「徳山ダム建設中止を求める会」として come out して、徳山ダム建設事業審議委員会に要望書を出したり、傍聴に行ったりしたときの、中部地建の担当者との接触の際の心底の感想は「河川官僚さんに歓迎されちゃった」というものであった。
反対運動のハの字もないのでは、梶原拓・岐阜県知事(当時)や小川満・大垣市長(当時)の「今さら何を言うか!」の罵声を浴びつつ徳山ダム審を設置しても、「格好がつかない」。「中止を求める」声は、「必要」だったのである。
これを述べると「建設省河川局は、中止をする気などなかった。そんなことも分からなかったのか」などという批判を貰ったりするのだが、そういうことではない。
長良川河口堰で大反対運動のあった木曽川水系の巨大水資源開発施設・徳山ダムについて、「公開の場で審議する」ことを「必要」としていた、だから「公開の場で審議する」に値する程度の反対論が「必要」とされていたのである。
「黙って傍聴する」という形態でしかなかったが、それまで一切公開の場で説明されたことのなかった「利水」「治水」「環境」などが、とにもかくにも河川管理者から説明された。ダムも河川も何も知らなかったシロウトとしては、「無料の講義」を聴かせて貰ったともいえる(繰り返すが、情報公開法もなく、「工事実施基本計画参考資料-高水計画-」が、「マル秘」の資料であった時代である)。
1996年6月22日の大垣市での公聴会では、ニワカ勉強で治水論をやった(割り振りをやってみたら「他に誰も居なかった」類)。
故・村瀬惣一さんに褒めて頂いたのが懐かしい。
1996年6月22日公聴会での私(近藤ゆり子)の発言記録
【質疑】の質問者は春日井市長(尾張水道協議会会長)の代理だったように記憶している。「そのご質問が、私の陳述とどう関係するのかが見えないので、どうお答えして良いか分かりませんが?」という私の反問は記録されていない。要するに「現場を知らない空理空論だ」と言いたかったのであろう。
ところが、である。
丁度その前年と前々年、西濃のカスミ網猟の痕跡を調査するために、揖斐川上流域の藪山に何回も入っていた(秋の午後に入って、道に迷い、暗くなり…危うく遭難しかかった、という恥ずかしいことも)。
もし、この質問者がもっと突っ込んできたら「根尾川上流温見峠から能郷白山に、本流では冠山峠から冠山、高倉峠から稜線伝いに南に行きました。また坂内川では夜叉ヶ池から三周ヶ岳方面、八草峠沿いの山には何度か、また金糞岳にも登り、そこで初めてイヌワシを見ました。粕川を遡って貝月山に登りました。牧田川では時山にも行きました。それぞれ二度か三度は行きましたが、そんな程度では全く足りない、発言資格はない、というご意見なのでしょうか?」とまくし立ててやるところだった、残念。
多分、一般的な木曽川上流河川事務所の職員よりは揖斐川の上流部を「足」で歩いている…越美砂防事務所の職員だと負けるか?
( 続く:この時点で表題と中味が少し離れていることは承知しています。話が表題の通りに完結するのは、少し時間がかかるかも)