河川法改正と淀川水系流域委員会-木曽川水系流域住民としての雑感-② |
~ 河川官僚はウソツキ? いえ「土木とはそういうもの」~
◇ ◇
「揖斐川の治水論」が出たついで。
1996年6月の公聴会の陳述の中で、私は「同じ流量でも水位が1.25mも違う」と指摘している。これは、ダム審に向けて中部地建が発行したパンフに拠っている。
この公聴会より後の徳山ダム審で、流量観測と水位流量曲線(H-Q曲線)の説明があった。
中部地建河川開発課長(当時)の泊氏が、審議会会場に観測に用いる浮子を持ってきての熱の入った説明(とても生き生きと)…「やっぱ、(河川)技術屋さんなんだぁ」と強く印象に残っている。出水のとき、観測者(昔は河川工事事務所の職員だったそうだが、今はアウトソーシングが進んで、民間委託が中心と聞いている)は、橋の上から浮子を川に落とし、それが下流のある地点を通過する時刻を(つまり落としてから通過するまでの時間を)測る。ほぼ川の中心の表面の流速が実測できる。河道断面は判っているし(アバウト)、水位は常に観測しているから、流速を実測する(中心と堤防の傍、表面と底の方では流速が異なるが、その”補正”計算の方法はあるらしい-アバウト-)ことで、単位時間当たりの流量が算出できる、というわけである。
その水位と流量の関係を二次曲線で表したものを示された(私が見ているものは水位が縦軸、流量が横軸。以下、この形のH-Q曲線の話)。
当然ながら、水深が数十センチのときと、水深が7mも8mもある大洪水のときとでは、大きく条件が違う。同じ年のH-Q曲線でも「適用期間」「適用水位(××m<H、△△m>Hなど)」で、3通りくらいの曲線になる(後に情報公開請求でグラフと数値を見た)。そうした1年分を一つの二次曲線にしてしまうのだから、さまざまな要素を切り捨てた、かなりアバウトなものになる。それでも、徳山ダム審で示された1959年と1960年ののH-Q曲線は、似たようなものであった。1年でそれほど大きく違ってこないは当たり前である。
しかし1975年のH-Q曲線は大きく違っていた。 その違いの理由が全く説明されない。
1959年(伊勢湾台風の年)は、徳山ダム審のときに生きていた(1997年改正河川法に基づく河川整備基本方針-木曽川水系-の策定は、実に2007年11月である。「徳山ダムがほぼ完成し、徳山ダムを巡る裁判も”片づけて”から、おもむろに、前の数値を踏襲する」」というわけだ)木曽川水系工事実施基本計画の高水計画立案のときには、大いに重要視されたはずである。1959年及び1960年ののH-Q曲線では、流量に対して水位は比較的低い。つまり、揖斐川の基本高水位流量を決めるときには「低い水位で大きな流量」だったのだ。
ところが徳山ダムの効果を云々するときの1975年のH-Q曲線は、流量に対して水位が高い。
「高水計画立案のときには低い水位で大きな流量だった」「ここで決めた基本高水流量をHWLを高くしすぎないように洪水調節しようとするときに使う資料では、同じ流量で遥かに水位が高い」となると、結局「大きな洪水調節施設が必要だ」となってしまう。高水計画を立案する頃には破堤もせずに流下していた洪水が、1975年のH-Q曲線の流量に当てはめると、とんでもなく高い水位になって堤防を越えそうになってしまうのである。「こんなに水位が高くなっては危険だ(揖斐川が「天井川」であるのは事実)。上流で洪水調節施設が必要だ」という結論に誘導されることになる。
1959年~1975年の間には、横山ダムも完成し、河床が下がる要因はあっても河床が上がる要因は考えにくい。
故・村瀬惣一さんの言葉を借りれば「ここでも『まずダム計画ありき』で、ケツから数字を合わせることをやっているのが見えてしまった」ということか?
◇ ◇
いきなりコーヒーブレイク。
毎日、何回も通るウチの階段から見えるウチの八重桜が、ほぼ満開になっていることに、12日になって初めて気づいた。
一週間前には確かに蕾は固かったのに
… 何だかキツネにつままれたみたいな気分。
◇ ◇
当会主催で、1996年10月8日と1997年2月7日に「建設省との対話」を行った。特に第2回の1997年2月7日には、この「H-Q曲線の怪」を問題にした。予め質問を出していたから、建設省(中部地建河川部)は回答を用意していたが(当時のことゆえOHPという形で)、全然「理解できない」。これは聞いている私たちがシロウトだから理解できないのではなく、「説明」のほうがおかしいからだ、ということははっきりしているのだが、その場でツッコミを入れられるほど、こちらも詳しくはない(こちら側の参加者に河川工学の専門家はいなかった))ので、「ではこの問題は、こちら(当会)側も、もっと詳しい人を招いてきちんと議論したいので次回にしましょう(口頭了解的には、1997年6月8日を第3回としていた)」となった。
しかし、その直後に、一方的に「建設省との対話」を打ち切られ、その後は行政訴訟(事業認定取消訴訟)提起したことで「係争中なので」と逃げられっぱなし。
訴訟での「建設省-国交省」の説明(原告側が準備書面でツッコミをかけたことへの「反論」準備書面で、ということ)も、1997年2月7日の域を一歩も出ない。私はフラストレーションの塊になってしまった。
事業認定取消訴訟の控訴審結審の日(2006年3月17日)、法廷の出口で(※)傍聴に来ていた中部地整河川部流域調整官のS氏に「さて、これで事実審は終わりました、もう『係争中』と逃げなくてもよくなったでしょう?あの気になってしょうがない『H-Q曲線の怪の本当のこと』を教えて下さいよ」と言って、ほどなく説明をして貰った。
※ 流域調整官(当時)のS氏は、ほぼ10年前の「建設省との対話」の実務打ち合わせの担当者だったから「あのH-Q曲線の怪」で話が通じる。この法廷出口での「親しそうな」やりとりの様子を見ていたある新聞記者に、「近藤さんは、国交省中部地整の人と仲が良いみたいに見えますね」と言われたので「『良いみたい』ではなくて、本当に仲が良いのです」と答えてしまった。ストーカーが「相手も自分を愛している」と言うのと同様????
もちろんS氏はインチキだとか捏造だとか、認めるはずがない。が、私の頭で翻訳すれば「1975年のものは、① 起点の線の引き方には問題がある ② 実測数が少ないまま(流量の大きな違いをまとめて)単一の線にしたことには無理があって、少ない流量で高い水位、ということになってしまった ③ H-Q曲線は、ある意味その程度のものだから、これだけが計画高水流量とHWLを関係づけている、というわけでもない」ということになる(じゃ、何のさ?には不鮮明な回答)。
11月にブログに書いた「土木とはそういうもの」の部類である。(下にリンクをつける)
(このときに、すでにこの後の木曽川水系河川整備基本方針策定における「揖斐川・基本高水流量(工事実施基本計画の数値を「変えない」という結論)」に関係する話も出ていたが、ここでは省略)
「土木とはそういうもの」-①
「土木とはそういうもの」- ②
「土木とはそういうもの」- ③
この「説明」の中で、「流量観測(つまりは流速観測から出す)では、出水の初めのほう(洪水が流下しやすい)と、ピークと、終わりのほうでは、プロットする位置がこう左回りになって…」とか「台風や前線は西から東に移動するけど、(直轄区間が)揖斐川や長良川ではほぼ南北だけど、木曽川は東西(東から西に流れる)ので、違った様相になる」とか、いかにも現場技術者らしいことをいっぱい話してくれた。私自身はおよそ「技術屋アタマ」ではないし、技術にあまり興味はもてないが、「技術大好き人間」のありようには興味がある。
「技術大好き人間」には、良い意味で「真っ当に技術を活かす」仕事をして欲しいと思う。「事業計画があるからあおれを遂行せねばらない」などという変な義務感から「ケツから数字を合わせる」ようなことに心を砕いて欲しくはない。「存在する計画を中止したときの政治的・社会的混乱をどうするか?」は河川技術者のアタマで考えきれるはずがない。
自分たち河川管理者(河川技術者)が考えきれないから「中止はできない」というのは本末転倒も甚だしい。「中止した場合(若干の)社会的混乱の解決策、及び財政的後始末」は、流域住民が、そして私たち主権者が、政治的・社会的に解決していく問題である。
土木技術者が希少種の養殖技術を磨く???[2009-03-19 01:48 by tokuyamadam]
(続く:まだまだ脱線しながら延々と話は続く…)