河川法改正と淀川水系流域委員会-木曽川水系流域住民としての雑感-③ |
~ダム審とは何だったのか?~
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1995年に全国13箇所に設置された「ダム等審議委員会」は、その年の「河川審答申」とタイアップした「河川法改正のお試し」企画であった(表現はともかく、その趣旨は中部地建及び建設省河川部から聞いた)。
反対運動の「ハの字」もない徳山ダム建設事業をその対象としたのは、明らかに同じ水系である長良川での長良川河口堰の大きな反対運動を受けて、であった。「『中止も含めて見直す』と建設省に言われては…」と当会を発足させた事情は前述した。
この「『中止も含めて見直す』と建設省に言われては…と当会を発足させた」という私(たち)の言い方に違和感を覚える人は多いらしい(「ダム反対運動」を長くやって来られた方は特に)。「『中止も含めて見直す』などという建設省の嘘っぱちに騙されたのか?ダム審で中止になると思ったのか?」と。まさかぁ。いい歳をして、それほどウブではない。(というより「お上のやることは、凡そ信用ならない」と反応するタチの人間ばかりで始めた)
「徳山ダム建設事業審議委員会」の委員の顔ぶれを見ただけで「推進答申を出す」ことは分かっていた。「8月の概算要求に間に合わせるべく、6月にも推進答申を出してしまう可能性大」と考えたので、1995年末に当会を「駆け込み発足」させたのだ(正直、十数年も「徳山ダム建設中止を求める」と言い続けるとは思っていなかった)。
では「ダム審」とは何だったのか?
それぞれのダムのそれぞれの様相があった。強力な反対運動の存在したところほど「結局は『お墨付き機関』だ」という。
私は、(1995年段階で)「建設省は、すでに事業化している事業に『お墨付き』を必要としていない」と考えた。あえて他のダム審については言及はしない。
「技術と人間」に、1998年3月号から「徳山ダム問題を考える」を7回連載した(1回.2回・7回が私の稿)。
1回目に、徳山ダム建設事業審議委員会についての、そのときの私の捉え方を書いている。
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連載「徳山ダム問題を考える」(1)
揺れ動く“地元”からの報告-審議会とは何だったのか
徳山ダム建設中止を求める会 事務局 近藤ゆり子
<連載を始めるにあたって>
木曽三川の西端・揖斐川の最上流部に「日本一の巨大ダム・徳山ダム」の構想が浮上してから40年、1400人を越える人々が故郷を追われた。“高度成長”を背景とした「国家の発展のために水が要る、電力が要る」との大合唱の前に、「補償交渉」という形でしかダムへの抵抗を表現できなかった村…「徳山ダムには反対運動がなかった」と言われている。古くからの読者の中には、1981年の本誌臨時増刊号「水問題の争点」掲載の論文(補償交渉に揺れる村の中から発信した論文)をご記憶であろうか。徳山ダムへの異議は、根強く徳山村に存在した。その声が全国に響くことがなかった責任は誰にあるのだろうか。
人の居住の跡を2万年前まで遡ることのできる古い歴史を持つ村・徳山村は、1987年に廃村となった。重い「既成事実」ができてしまったその頃、水需要は完全に停滞し、事業を推進する側(国や県)にとっても徳山ダムは目的を失ったものなってしまっていた。しかし動き出した公共事業は止まらない。これまで毎年100億円強の予算をつぎ込んで、徳山ダムは関連工事のみを行ってきた。そして「来年度から本格着工」という予算案が、今国会に出されている。
1995年、建設省は事業が長期化しているのダム事業について「中止も含めて“見直し”を行うための試行・建設審議委員会を設置する」と発表した。徳山ダムも「審議委員会」の対象となり、1997年2月には「早期完成」答申が出された。ここ10年近くは水没地の用地交渉(地区の共有林の地権者十数人がまだ契約に応じていない)すらも行おうとはしていなかった水資源開発公団は、この答申に押されて「強制収用」ちらつかせてと張り切りはじめた。
私たちの「徳山ダム建設中止を求める会」は、揖斐川流域の中心都市・大垣の市民を中心に、1995年12月、「徳山ダム建設事業審議委員会」発足直後に結成したものである。「口先だけであろうと、建設省ですら“見直し”と言うのに、流域に異議申し立てが一つもなかったと歴史に残されるのは、いかにも悔しい」。動機は受動的、時機は「遅まきながら」であるが、会の発足から丸2年、私たちの想像以上に様々なことがあり、当会の存在も一応世間に知られるようになった。
そして今、徳山ダム建設予定地の村・藤橋村(廃村になった徳山村を編入合併した村。人口四百数十人、有権者三百六十二人)は、ダムマネーを巡る不明朗な契約問題で村長リコール運動が起きている(有権者の3分の1のリコール署名を達成し、本請求が出され、投票が2月中にも行われる)。「ダムを前提にし、ダムに寄り掛かる村」に変化が起き始めた。「地域の活性化とは、一人一人が毎日を生き生きと暮らしていくこと」(リコール運動の中心人物の言葉) 「地域の活性化のためには、自然破壊もやむをえない」という選択のあり方を、山奥の村から問い直している。歴史の歯車は確実に動いている。
徳山ダムに関わる問題は、間口が広く奥行きも深い。とても1回では書き切れないので、編集部のご厚意で連載にしていただいた。連載の配列にも整合性がなく、内容にも不備が多々あるであろうが、日々の動いていく運動の渦中からの報告であることに免じてご寛恕頂きたい。
暴走する公共事業を止めるには
- 建設省の「“ダム見直し”審議委員会」とは何だったのか
1995年、建設省は事業が長期化している12(のちに1つ増える)のダム事業について「見直しのための試行・建設審議委員会」を設置すると発表した(徳島県・細川内ダムについては、地元の木頭村の抵抗によってこれまで設置できなかった。実質的に事業中止の方向が見え始めてから、木頭村は要求・条件の多くを呑ませる形で一応審議委員会の設置に応じた。現在、委員を選任中であるが、まだ予断はできない。従ってこれまで設置された審議委員会は12である)。審議委員会の対象とした事業は、もともと「事業が長期化している」「反対運動がある」等、建設省にとっての“問題”事業であった。
「見直し機関」云々は、建設省が率先して言い出したのではない。「建設省の手を離れた第三者機関」という試案が、市民の側から出されていることに対抗して出されたものである。法律に基づかない「各地方建設局長の私的諮問機関」としたこと、審議委員の選任に建設省が枠をはめた(委員の過半数を自治体の首長・議会議長とし、「学識経験者」は知事が選ぶ)ことなど、当初から「見直しなど口先だけ」「“問題”事業にお墨付きを与えることを企図したもの」という批判が噴出した。そして、これまでに「最終答申」が出された8つのうち6つまでは「計画妥当・事業推進」であった(2つは「一部又は全体計画の見直し」)。「本質的な見直しなどできるはずのない審議委員会」であることが、結果からも明らかになった。けれど、「見直しなどできるはずもないことは、初めから分かっていたこと」と切って捨てるだけでは、運動の糧にはならない。「暴走する公共事業」を止めるには何が必要なのかを考えるために、いや、それ以前に「公共事業が暴走する理由」を捕らえるためにも、建設省の「試行」の破綻の意味を見て行きたい。「徳山ダム建設中止」の運動を展開しながら、「徳山ダム建設事業審議委員会」の傍聴活動を行った者の立場から、「事業審議委員会とは何だったのか」を述べようと思う。
(以下略)
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技術と人間 連載「徳山ダム問題を考える」-揺れ動く“地元”からの報告-
(2)藤橋村の歴史と現在 近藤ゆり子 1998年4月号
(3)藤橋村リコール騒動記 中川治一 1998年5月号
(4)揖斐川流水設計の検証 村瀬惣一 1998年7月号
(5)徳山を大型猛禽類の聖地に 上田武夫 1998年8・9月号
(6)反故にされた「確認書」 三浦真智 1998年10月号
最終回 近藤ゆり子 1998年12月号
(続く)