河川法改正と淀川水系流域委員会-木曽川水系流域住民としての雑感-④ |
~ 「官僚の善意」 中央集権と地方分権(1)~
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「ダム審設置」~「河川法改正」に至るは、さまざまな要素が絡み合っているだろうが、1990年代前半の「政治的流動」とを見ずに河川行政のみを論っては正鵠を得ないと思う。たとえ一瞬でも「政権が変わった/自民党が下野した」ことは大きかった。
自民党を下野させる「民意」があって、(どんなに骨抜きであろうとも)環境アセス法が出来、情報公開法が出来て、その流れの中で河川法改正もあった。
河川法第1条「河川環境に配慮」と環境アセス法、河川法第16条の2「河川整備計画では行政以外(学識者・住民)から意見を聴く」と情報公開法は、いわばセットで出てきている。
最近の「国の直轄事業(都道府県)負担」批判の(※1)中で、北川正恭・元三重県知事は(※2)「今は情報公開制度もあり、知事は県民に説明責任がある。国も、直接、納税者に説明責任を果たさねばならない時代になった。そういう制度のなかった時代そのままに『国が都道府県に請求する』『(国に)請求されたから払った』で済む時代ではない」と述べていた。
※1:国交省発表 平成21年4月7日
「直轄事業に関する意見交換会の開催について」
結果については、国交省HPからは捜せない。
毎日新聞4月9日
金子国交相:「ぼったくり」発言、無理もない
※2: 北川氏が三重県知事として行ったことのいくつかは「到底許し難い」ものであり、私は彼のファンではない。
ダム審設置のときに、建設省は「透明性・公開性を高める」と言い、それはそのまま「河川法改正」のときの謳い文句でもあった。私はその文言を、素直に「前進だ」と受けとめている。(「実際に透明性・公開性が高まった」と述べているのではない。「謳い文句」を文言として素直に受けとめたのである。ここはよく誤解されるので)
であればこそ、淀川水系流域委員会の委員選任のときから行政の外部に選任して貰う、というのは、「お試しダム審」では出来なかったことを、河川法改正をもってやってみた、やれたのだと考えている(※3)。
※3:日本の官僚機構は、あまりにも長い間変化に晒されない所為か、『法律による行政』という前提を忘れている。『裁量』のひと言で何でもやってしまうなら、『大岡裁き』のほうが-結果が理に適っているから-マシ。
国家公務員の皆さんには、国家公務員になるときに署名捺印した「宣誓」を忘れないで欲しい。(Where have all the「宣誓文言」s gone ? 状態)
職員の服務の宣誓に関する政令
( 法令データ提供システム で検索して下さい)
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宣誓書
私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います。
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「技術と人間」1998年3月号でも、少し書いたが、徳山ダム審で、私は自らの硬直した巨体で身動きできなくなっている霞が関官僚の嘆きを感じた。河川官僚が「ダム」を頭から全否定するはずはない。が同時に「計画したダムの全部は造る」ことが不可能であることもまた明らかである。いくつかのダムは建設構想を破棄し、事業化しているダムもいくつかは中止するしかない。しかし、あれだけ巨大な中央集権の高みにいても、「事業中止」へ向けて権力は行使できないのである。霞が関の強力な中央集権は、「ウチの地元の事業こそ、早くやって下さい」という地方の強い要求があり、それを前提に(全部を同時にやれるはずがないので)、事業の優先順位を決め、予算配分で箇所づけすることにおいての「権力」であった。「事業をやめる」という決定権は、中央官僚には委ねられていないことを如実に示したのがダム審であった。(もちろん、このことを示すことで「事業を推進したのは霞が関ではなく、地元だからね」という官僚特有のエクスキューズ、という側面は大いにあったが)
スイトピアセンター貸出許可取消事件(※4)などもあって、「国の事業を推進すれば『悪いようにはしない』だろう」という、地方自治体(首長・議会多数派)の哀しいまでの奴隷根性的信仰を見てしまった。
地方から政治を変えないと地方分権は出来ない、というか、「この水準で『地方分権』が進んだらコワイ」とさえ思った(Oh!なんとまあ、カスミガセキ頭)。
※4:憲法!1996年大垣市スイトピアセンター使用出許可取消処分の執行停止申立事件 [2009-01-16 17:17 by tokuyamadam]
徳山ダム建設中止を求める会の活動をしつつ、徳山ダム審を傍聴し、心底「地方から政治を変える」べきだ、と思ったことには、ちょっとした伏線がある。
1995年は、1月に阪神淡路大震災があり、3月にオウム真理教の事件が表面化して大騒動になった。「総括もできずに拗ねてフテ寝している20年」は、もう終えねばならない、と思った。
1995年4月の統一地方選で大垣市議会議員選挙のときに、投票所に足を運んで、係の人に尋ねた。「選挙公報をなくしてしまったのですけど、ここにありませんか?読んでから投票したいので」。「選挙公報はありません。(※5)」「え(絶句)。じゃ、皆さん(←「皆さん」がなんなんだ?)、どうやって投票する人を決めるんでしょう」。「地区推薦とか…」。ここで完全に絶句。
※5: 市選管レベルでは、選挙公報を作成・配布するかしないかは、その自治体の判断による。一般的に「田舎の議会」は選挙公報はキライなようである。
「絶句」のわけ … 簡単なほうから。
1979年の統一地方選だと思う。「本町(当時の仕事場であり、亡夫の母親の居所)自治会」の回覧板に、ある自民党系議員の後援会申込書が挟んであった。亡夫はある自治会役員(亡夫の同級生)のところに抗議尾に行った。「こんなことをどこで決めたのか。決められるはずがない。こんなことが決められるという自治会なら、直ちに抜ける!会費も月割りで返せ!」と。どうやらその役員は、「うっかり間違えて回した」というような言い訳をしたらしい。直ちに回覧板から外され、以後、「本町自治会」としては、市議会議員選挙で「町会推薦」を出していない。
私は、そういう一件があったことさえ、忘れていた。しかし、1995年当時は「町会推薦」を出さない町会(正式名称は「自治会」だが、ほぼすべての人が「町会」と言う。そこに表向きの「自治」会と実態としての「隣組-町会」の関係が表れている)のほうが少なかったのだ、と後から知った。
大垣市議会議員選挙において、存在しない選挙公報を「ある」と思いこんでいたほどに、私は、地方議員選挙に無関心であったのだ。「遠い話」とは思いつつ、国会の政党に議席数のおよそは常に把握していた。新聞の「政治欄」もそこそこに読んでいた。が、読む「政治欄」は、永田町を中心とする東京の情報である。私自身が「政治は東京にある」と思っていた。
「地方議員なんて、もう現役引退のオジンが名誉職だと思ってやるか、市議会議員→県議会議員→国会議員と”上って”いきたい目立ちたがりの出世亡者がやるものだ」としか見ていなかった。自らの住む基礎自治体の大垣市議会議員の数さえも知らなかったのである。
無関心ほどオソロシイものはない。圧倒的多数の地方議員は、「箸にも棒にもかからない」類。「地方議員なんて」の巣窟になってしまった。だが、この地方議員が動いてこその国会議員選挙である。「地方議員なんてアホのやるもの」などと小馬鹿にしている限り、(国レベルでも)「アホな政治」しか享受できない、ちょっと考えれば当たり前のことである。自分がいかに「東京という中央集権に毒された思考法」であったかを衝撃的に思い知らされた。
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河川法改正の直後くらいに「官官接待」問題が表面化した。「表面化」したのは、「官官接待」をする側にとって旨味が少なくなったからである。「接待に10万円使って10億円の補助金、100億円の事業をとってくれば上出来、大儲け」というわけには行かなくなった。
「補助金をとって県の事業をする」あるいは「国の事業をもってくる(直轄負担金が生じる)」ことが善とされるには、「右肩上がり成長は続く/インフラ整備はいくらでも必要」「経済成長で負担は将来は相対的に小さくなる/地方交付税で国から割り戻しが貰える」ことが前提であった。この前提はすでに1970年代、オイルショック後に崩れているのだが、誰の目から見ても、この前提の瓦解が明らかになったのはバブル崩壊のときであろうか?
自治体首長や地方議員、地方公務員の頭は相変わらずの奴隷根性であっても、「無い袖は振れぬ」。事実として「要らない施設」「要らない事業」はお荷物でしかない。
一瞬ではあっても「自民党の下野」という政治の変化は、それまでの「中央官庁の役人に任せておけば上手くいく」という幻想に、多くの人が見切りをつけたからであり、そういう文脈の中に河川法改正もあったことを、きちんと見ておかねばならないだろう。
(続く)