河川法改正と淀川水系流域委員会-木曽川水系流域住民としての雑感-⑥ |
~ 宮本博司さんと淀川水系流域委員会 ~
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06年10月初め、あるMLで以下のものを受け取った。
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10月5日の朝日新聞夕刊に元近畿地方整備局・河川部長の宮本博司氏の近況を知ら
せる次の記事が出ていたそうですので、全文をお知らせします。
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「窓」 論説委員室から
河川官僚の転身
国土交通省が設けた委員会なのに、「ダムは原則建設しない」と提言した淀川水系流域委員会の仕掛け人で、元国交省淀川河川事務所長の宮本博司さん(53)が7月、本省の課長を最後に突然退職した。
実家で包装資材販売の手伝いをしている。京都の高瀬川沿いの家を訪ねると、作業服姿で現れた。トラックで配達もする。「役所でできるだけのことはやった。これからは一市民として発言したい」淀川の委員会は情報公開と議論を徹底した。委員の人選は市民に任せ、事務局も役所の外に置いた。宮本さんは4年3ヶ月も所長に在任し、作業を見守った。国交省は昨年、「一部ダム計画温存」方針を出したが、委員会は反論し、なお話し合いを続け、着地点を探している。
世間と逆に省内の評判はよくない。「決定に時間がかかりすぎだ」「委員会の運営に20億円も使った」「首長の反発はどうする」。ほかでは市民の意見は公聴会で聞き置く形が目立ち、淀川は孤立していた。
宮本さんの転機は長良川河口堰だ。95年の運用開始の前後、旧水資源開発公団に出向、現地所長も務めた。土壇場での反対派との話し合いは揚げ足を取るか取られるかという不毛の議論。計画段階から現場で徹底的に話し合うべきだと思ったそうだ。
当時、宮本さんに取材した。心の揺れまでは分からなかった。「市民と対立する役所の人」という色眼鏡で見ていたことを反省する。それにしても異能の人を組織に残せなかったことを惜しむ。 (伊藤智章)
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これを書いた伊藤智章氏は、徳山ダム審のときにも積極的に取材していた。いろいろな意味で、当会立ち上げのときから「知っている」ジャーナリストである。ダム・河川問題、特に木曽川水系のことだと朝日新聞でも「第一人者」だろう。
「へぇえ… 伊藤智章さんは『色眼鏡』でみていたんだぁ」というのが、私の最初の感想だった。
幸か不幸か、私は長良川河口堰の運動に参加したとはいえないので、「色眼鏡」も何も、予断も偏見も抱きようがない。
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宮本博司さんのお名前は、あちこちで耳にしていた。
だが、直接、自分の名前を名乗って名刺交換をしたのは、2004年2月28日の「しっかりしてや!! 流域委員会~新しい川づくりに向けた意見交換会~」のときだった。こちらが名刺をお渡ししたとき、宮本さんは「お名前は…」とおっしゃっていたから、私の「悪名」は河川局内で知られていた、ということだろう。
「しっかりしてや!! 流域委員会~新しい川づくりに向けた意見交換会~」
淀川水系流域委員会HP>>
*平成16年開催分
* ニュースレター
委員会ニュースNo.28(2004年3月)
に、資料とレポートが少し載っている
私は、以下のような喧嘩腰の発言をした(正式な発言の場ではなく交流会のような場であったような気がするが、個人対個人ではない場面で)。切り縮めれば「『淀川モデルの全国化』と浮かれてはしゃぐんじゃない!」ということだ(剣呑!)。
「この流域委員会は1997年河川法改正を体現したものと評価しています。しかし、河川法流域委員会委員も設置も『淀川モデルの全国化』とおっしゃいますが、本当に『全国化』などできるのでしょうか?費用の問題もあります、時間の問題もあります。かつ、それだけではないさまざまな諸条件が揃わなければ、こうした流域委員会は成り立ちません。それは主たる委員の皆様も、設置者もよくご存じのはずです。例えば、河川法改正において重要な役割を果たした木曽川水系で、同様な流域委員会が設置できますか?冷静に考えて、その条件はあるとお思いですか?淀川水系流域委員会の本当に全国化すべきエッセンスを凝縮・抽出しなければ、『全国化』の端緒にもなりえません」
結局、その後河川局では、『淀川モデルの全国化』よりは『「淀川委征伐』(布村明彦氏の発言?伝聞としては幾通りかのスジから聞いている)という「反動化・先祖返り」が猛威をふるうようになる。
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余談1:宮本博司さんの国交省退職後の淀川水系流域委員会の傍聴席で、顔見知りの女性と「宮本さんは一般市民として淀川水系流域委員会の傍聴に見えるだろうか。お見えになったら最敬礼をしよう」という話をしていたら、ご登場。いきなりオバサン二人に最敬礼されて、宮本さん目をパチクリ。
余談2:2006年12月に岐阜新聞の長期連載「森と水の県土へ」第4部の連載があった。
岐阜新聞 森と水の県土へ 第4部「明日への視点」
都心部への人口流出により農山村は活気を失い、開発を受け入れる地域が少なくない。山と川が生き生きと呼吸するためには、そこに住む人間にはどんな姿勢が必要なのか。第4部「明日への視点」では、山と川に囲まれた郷土の未来の姿を探るため、自然にかかわって活動する人々に考えを聞いた。
ダムへの反旗(上) 長屋丈一郎さん 2006年12月 4日(月)
ダムへの反旗(下) 近藤ゆり子さん 2006年12月 5日(火)
住民協働の河川整備 宮本博司さん 2006年12月 6日(水)
山で生きる道(上) 田中滋さん 2006年12月 7日(木)
山で生きる道(中) 清水孝宜さん 2006年12月 8日(金)
山で生きる道(下) 金田幸夫さん 2006年12月 9日(土)
農村で生きる道 安保洋勝さん 2006年12月10日(日)
クマ出没問題 坪田敏男さん 2006年12月12日(火)
心に刻む山と川の恩恵 第1‐4部振り返る 2006年12月13日(水)
第2回に私、第3回に宮本さんと並んでしまった。
精力的にこの連載を担当し「心に刻む山と川の恩恵」を書いた岡本周子記者は、その後「岐阜新聞社の大異動(異変?)」と符合するようなタイミングで退社している。
余談3:こうした新聞記事の後、宮本博司さんは、淀川水系流域委員会委員公募への応募、委員長としての活躍などで、全国に知られるようになった。
「色眼鏡」で見ていた人の見方も変化した。
だが、私の知る範囲だけでも「長良川河口堰でのあのときの対応は何だったのか、宮本さんが、自分の言葉でしっかりと総括して貰わない限り、私は納得しない」「苫田ダムでの対応は何があろうとも絶対に帳消しにはできない、許せない」という人もいる。
結果責任は消えない。しかし、人は誤りを正して進むしかない。だが、結果責任は消えない … どこまでも続く連鎖である。
(続く)