河川法改正と淀川水系流域委員会-木曽川水系流域住民としての雑感-⑧ |
~ それでも1997年河川法改正の意義は活きている ~
1995年に、ダム等審議委員会に際して、反対運動のハの字もない徳山ダムを対象するとの報に接したとき、私は「長良川河口堰反対運動」で耳にしていた「頑迷固陋な河川官僚」「政・財・官の利権癒着/鉄の三角形」というのとは、異なる「印象」をもった(これは決して「河川官僚はよく話が分かる」とか「ダムに利権など全くない、官僚は一人残らず清廉潔白だ」などと強弁しているわけではない。もし私にそう言われたら、河川官僚さん達、ムズムズとこそばゆくて困ることだろう)。
1996年6月、名古屋市本山の生協会館で、建設省中部地方建設局河川調査官のK氏の「河川審答申と河川法改正の方向(演題は正確には記憶していない)」を聞き、さらに散会後に、K氏に直接「住民意見を聴く際にはバックデータも示すのですよね」と訊いた。K氏少し逡巡したが、きっぱりと「バックデータもお示しします」と答えた。まだ情報公開法もない時代である。管理する文書を、一般市民に提示するかどうかは、その役所の裁量にかかっていた、その時期だ。私はK氏の一瞬の躊躇いと、明確な首肯を素直に受け取った。
「素直に受け取った」ということは、「必ずそうなるだろうと思った」ということではない。
K氏やその他の河川官僚さん達が「善意」で河川法改正を行ったとしても、そうそう簡単に「住民意見の反映」などとは参らないことは、まさに「いい歳をして」分からないはずもない。
「住民意見の反映」と言っても、住民意見も「いろいろ」。それをどう汲み上げるのかは、「間接民主制を原則とする」システムとの整合も含めて、難しい問題を孕んでいる(※)。
※ 「間接民主制/議会議員が住民意見のすべてを体現している」で切って捨てるわけにはいかないことは、すでに明らかではあった。「ワンイシューの重要争点には直接民主制要素も採り入れるべき」ということの具体化として、「御嵩町巨大産廃処分場住民投票」に向けて、岐阜県の多くの市民とともに、可能な限りの力は尽くした、という自負はある。
→ 1997年岐阜県知事選と御嵩町住民投票の成功
◇ ◇
木曽川水系では、1997年改正河川法は蹂躙された。
あれだけの年月・エネルギー・中味の濃い議論・経費をかけた淀川水系河川整備計画策定の全課程(主要に淀川水系流域委員会)も、「きれいなお手本・模範」とはならなかった。
それでも、私は「虚しい」とか「河川法改正の意義は無かった」とは思っていない。
判決としては負けっ放しの徳山ダム裁判を闘って、それまでの「判決としては負けっ放し」の長良川河口堰や水害裁判のもつ意味・意義・重みを少しは理解した。
ものごとは表面に出た「成果」だけでは測れない、とまさに「アラカン(around 還暦)」となって今一度思う。
若い時にそのセリフを聞いたら「負け続けた年寄りの独善・強がり」と感じたことだろう。
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夕陽の当たる湧き水。大垣市の中心部のミニ公園。
水温む … じゃなかった。
深井戸からの湧き水で、ほぼ1年を通じて一定の水温。
この井戸のあるミニ公園の隣のお菓子屋さんのご主人は、法律の所為で、このような生(き)の湧き水が、お菓子の製造に使えないことを残念がっている。
「水の都」のお菓子や豆腐に、塩素入りの水道水は似合わない。
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身近な人を何人か見送った。
アラカン(around 還暦)なのだから、平均余命でいっても、人生の70%以上は通り過ぎてしまっている。
人の生命は一つ一つ尊い。
だが人一人の一生で、一つの命で出来る事は限られている。
先人から何かしらの志を引き継ぎ、次世代に繋げてナンボである。
◇ ◇
1997年河川法改正からすでに12年。今の様(さま)を憂いて、「河川法再改正」という声もある。
しかし、私は「改正河川法はまだ十分に使われていない」と考えている。 改正を言うより、今の河川法を十分に活かすことが先だ、と。
どんなに立派な条文を作っても、流域住民が、自覚的に川に関わらずに「お上=河川管理者任せ」にするなら、画餅にすぎない。
1997年改正河川法は、私たち市民一人一人の「不断の努力によつて(憲法12条前段から)」活かしていくしかないのだ、と改めて思う。
(了)