済州島 ~ 4月3日を挟んで ~ その1 |
東日本は大災害、それも原発震災が進行中。そして年度をまたいでの駆け込みダム検証のさなか。こんなときになぜしばらく日本からいなくなったのか?
単純にいえば「4月3日を挟む済州島ツァーがあることを教えてくれた人がいたから」。
「済州島4.3事件」というものがあったことは、1970年に聞いていたが、その頃の知識と理解は「米国に支えられて単独選挙を強行しようとした李承晩一派と反共暴力団に、多くの島民が虐殺された。反共を国是とする軍事独裁政権下の韓国では、『共産暴動』とされており、語ることはタブーとなている」という程度のものだった。
「四・三特別法(済州四・三真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法)」が成立したこと、その後、盧武鉉大統領(当時)が済州島を訪れて韓国政府として公式に謝罪をしたというニュースに接し、一度は行きたいと思っていた。
そして、法政大サス研の金慶南准教授の「文書保存記録への情熱」に触れて、いっそうその思いが強くなった。
弊ブログ
第13回サス研フォーラムについて [2011-02-01 ]
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真相究明と和解と赦し・・・どの「問題」についても、このことは将来にわたって課題であり続けるだろう。
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にわか勉強でこの2冊を読んだ(右の文 京洙著 済州島四・三事件―「島(タムナ)のくに」の死と再生の物語 は、実に済州島への飛行機の中で読み始め、どうにか帰りの飛行機に乗る前に読み終わった・・・付け焼き刃ぁ)
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平和記念館。
旧日本軍の地下壕跡。
個人が整備し、維持管理も行っている、とのこと。
米軍は(日本)本土上陸の前にこの済州島を占領するのではないか、と、6万人以上もの日本軍をここ済州島に終結させ、「決号作戦」という名の決戦に備えたそうだ。
旧日本軍格納庫。”敵”の空爆をから逃れるべく、表面を土(雑草)で覆っている。
松岳山下の済州島には珍しい平野部。
日本軍が接収して飛行場にした。
見渡せるこの近辺に格納庫跡が多々。
「済州島4.3事件」は、1947年3月の「3.1節事件」から朝鮮戦争時期を経て1954年まで続いた。1950年7月、『予備検束』された住民132名が虐殺された松岳山旧日本軍弾薬庫跡。数年後に遺族が遺体を埋葬しようとしたが個々の身元を確認することが困難であったので「百祖一孫(百人の祖父に一人の孫)」碑を建てた。
松岳山の旧弾薬庫の裏にあたる場所に特攻艇「震洋」を隠すための洞窟が掘られている。この洞窟の一つで「チャングム」の撮影が行われたとかで、今は観光名所になっている。 黒い砂浜(玄武岩が砂になったのだろう)が印象的。
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薬泉寺の巨大本堂(寺の本堂としての大きさは世界一とか)と鐘楼。中央に祀られている大きな仏像の原木は、白頭山から運ばれたものだとか。
「火山島」である済州島。雨はすぐに火山灰と火山岩に吸い込まれてしまう。
何度か川を渡ったが、こうした「途中で水がなくなる川」が多かった。
海岸浸食によって出来た洞窟。上から滴る水が薬になるとか。滴り落ちて跳ねが上がる 瞬間を写真でとらえようとしたがうまくいかなかった。
岩屋に上る長い階段の途中からの眺望。昔、難破して済州島に漂着したオランダ船の船員が日記をしたためてヨーロッパに済州島を紹介した。そのオランダ船の復元が岬の根元に。
小雨にもやっている漢拏山(標高1950m、(38度線以南の現在の)韓国においての最高峰)。駐車場には残雪が。