2009年 01月 16日
憲法!1996年大垣市スイトピアセンター使用許可取消処分の執行停止申立事件 |
~「憲法」で勝ち取った!?~ 1996年大垣市スイトピアセンター使用
1996年7月と8月に、下の①②の2通りの集会について、大垣市スイトピアセンター(管理権者:大垣市教育委員会)の会場貸出を申し込んだ。当然のことだが、どちらも申し込み団体名は「徳山ダム建設中止を求める会」である。
①1996年10月10日の「建設省との対話」
②1996年11月24日の「徳山ダム建設をやめさせ、山の再生を求める全国集会」
一連の経緯は、当時の新聞記事PDFファイル(2枚)を参照されたい。

岐阜地裁の仮処分決定に関しての解説や経緯は 判例タイムズ No.922(1997.1.1)
http://www.tokuyamadam-chushi.net/sonota/20090113110605.pdf
に詳しく記載されている。
私は、8月20日の「第8回徳山ダム建設事業審議委員会」に傍聴に行き、その会場の記者席に出来上がったばかりの緑色のチラシ(「徳山ダム建設をやめさせ、山の再生を求める全国集会」及び「建設省との対話」チラシ)を配った。審議委員会委員である大垣市長らの目にも入ることは分かっていたが、別に隠すべきこととは思わなかった。
ところが8月30日に、上田武夫代表のところに突然の「使用許可取消」の通告があったのである。もちろん、唯々諾々とそれに従うつもりは無かったが、事務局としては、他の会場も確保すべく、すぐに管理権者の異なるいくつかの他の会場にあたった。
「『徳山ダムとか上田武夫とか近藤ゆり子とか、そういうものがあったら、会場が空いていても、その場で貸出許可も仮予約もしないで、市役所のほうに連絡してほしい』と言われている。こんなことは前代未聞だ。市役所の部長のほうから指示があったから従わないわけにいかないが、館長として会館の運営を預かる私としては全く不本意で心外だ」と、ある福祉関係の会館の館長は憤然と言っていた。
「大垣市長自身の政治判断であり、指示だ」と察知出来た。後から伝聞で耳にしたが「8月20日の第8回徳山ダム建設事業審議委員会で、チラシを目にした岐阜県の幹部(知事の代理として出席)が『大垣市でこんな集会を開くのですね』と小倉・大垣市長に言った」のだそうである。これを小倉市長は「大垣市でこんなものを開催させるのはケシカラン」と受け取ったようだ(岐阜県幹部がそういう意味を込めて発言したのか、それとも単純に『~開くんですね』と言っただけなのかは知らない)。また取材の記者に対しては、小倉市長は「市政に反対する者に市の施設を貸すわけにはいかない」と実に正直に言ったそうである。
(8月30日に上田代表に市教委が「通告」してきた時点で、総合福祉会館も中川ふれあいセンターも貸さないように通知していたのだ。つまり、上記新聞記事にある市議会での大垣市長の答弁は、向こう側の代理人弁護士の助言などを受けて、話をすり替えた「真っ赤なウソ」の類である)。
情けないのは、我らが市長が「大垣市民に会場を貸さないことで、県や建設省のお覚えを良くしよう」と考えたことである。ひたすら「推進!推進!」と言えば、「建設省のお覚えが良くなり、国の事業や補助金をたくさん持ってきて貰える」という、悪い意味での(中央からおこぼれに群がる、という)タカリの田舎者根性、卑屈に中央集権に迎合する旧態依然たる意識。
多分、「建設省との対話」のことは全く考ず(建設省が「反対派」が設定する集会に出席するなどということがありうるとは想像もできず)に、「『徳山ダム建設中止を求める会』が申し込んだのは、全部貸出許可を取り消せ。他の会場も一切貸すな」と指示したのであろう。
反対運動のハの字もなかった徳山ダム建設事業。そこに「徳山ダム建設事業審議委員会」を設置した建設省の意図・文脈が全く読めていない、読もうともしていない。
お気の毒な当事者の一人が、現在、国交省中部地方整備局河川部河川環境課長になっているS氏(当時、建設省中部地方建設局河川部河川調査課長補佐)である。「OHPなどの機器どうするか、進行をどうするか」というような詳細を、私と打ち合わせていた最中であったが、いきなり具体的な打ち合わせが進められなくなってしまった(10月6日(4日前)になって、ようやく機器や進行のことの打ち合わせに入れた)。
小倉・大垣市長は「建設省のお覚えを良くする」どころか、「建設省に大変なご迷惑をおかけしてしまった」のである。
こんなアホな理由による使用許可取消が司法の場で認められるはずがない(向こう側の代理人の大塩弁護士は、さすがに「市政に反対する者には…貸せない」という小倉市長の言い分で返しては来ずに、それなりにもっともらしい理屈をつけた。その上で、大垣市側に「これは負けるぞよ」と宣ったそうである)。仮処分をとって会場を使用した。
この「事件」のおかげで、ささやかな運動体に過ぎなかった「徳山ダム建設中止を求める会」は少し全国に名が知られるようになった。
とんだ「宣伝効果」である。
今、改めて岐阜地裁の決定について見てみると、(当たり前だけど)憲法の「集会の自由」にちょっとは触れているんだぁ…。
「憲法で勝ち取ったスイトピアセンター使用許可」だった、と言っておこう。
私は、徳山ダム裁判に限らず、その前にも後にも、「お上を訴える」裁判の原告になっているし、そういう裁判の支援もやっている。
圧倒的に「お上」の勝ちであり、こちらは「敗訴のヤマ」を築くことになる。(08.4..17の自衛隊イラク派兵差止訴訟控訴審における画期的違憲判決の当事者-控訴人-でもある。画期的判決だが「敗訴」-敗訴でないと上告審でひっくり返される-。「敗訴」にも大きな意味がある)
敗訴のヤマに懲りてはいない。「裁判所に訴える」あるいは「訴える場を作る」ことはやめない。
私たち「徳山ダム建設中止を求める会」が、「ダム・河川問題」に登場する前に、長良川では長い長い「たすきをつないだ」裁判が行われていた。これらの訴訟は(マンモス訴訟の無念の「取り下げ」というのもあったが、判決に至ったのは)全て「敗訴」であった。裁判官の頭では理解できなかった、ということのようだ。
しかし、突っ張っている被告(河川管理者)は、実は、結構真剣に検討し、河川行政を変えてきたことを、私はこの十数年、いろいろな場面で感じている。
私は、日本国憲法第十二条前段が「好き」だ。
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第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
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①1996年10月10日の「建設省との対話」
②1996年11月24日の「徳山ダム建設をやめさせ、山の再生を求める全国集会」
一連の経緯は、当時の新聞記事PDFファイル(2枚)を参照されたい。

岐阜地裁の仮処分決定に関しての解説や経緯は 判例タイムズ No.922(1997.1.1)
http://www.tokuyamadam-chushi.net/sonota/20090113110605.pdf
に詳しく記載されている。

ところが8月30日に、上田武夫代表のところに突然の「使用許可取消」の通告があったのである。もちろん、唯々諾々とそれに従うつもりは無かったが、事務局としては、他の会場も確保すべく、すぐに管理権者の異なるいくつかの他の会場にあたった。
「『徳山ダムとか上田武夫とか近藤ゆり子とか、そういうものがあったら、会場が空いていても、その場で貸出許可も仮予約もしないで、市役所のほうに連絡してほしい』と言われている。こんなことは前代未聞だ。市役所の部長のほうから指示があったから従わないわけにいかないが、館長として会館の運営を預かる私としては全く不本意で心外だ」と、ある福祉関係の会館の館長は憤然と言っていた。
「大垣市長自身の政治判断であり、指示だ」と察知出来た。後から伝聞で耳にしたが「8月20日の第8回徳山ダム建設事業審議委員会で、チラシを目にした岐阜県の幹部(知事の代理として出席)が『大垣市でこんな集会を開くのですね』と小倉・大垣市長に言った」のだそうである。これを小倉市長は「大垣市でこんなものを開催させるのはケシカラン」と受け取ったようだ(岐阜県幹部がそういう意味を込めて発言したのか、それとも単純に『~開くんですね』と言っただけなのかは知らない)。また取材の記者に対しては、小倉市長は「市政に反対する者に市の施設を貸すわけにはいかない」と実に正直に言ったそうである。
(8月30日に上田代表に市教委が「通告」してきた時点で、総合福祉会館も中川ふれあいセンターも貸さないように通知していたのだ。つまり、上記新聞記事にある市議会での大垣市長の答弁は、向こう側の代理人弁護士の助言などを受けて、話をすり替えた「真っ赤なウソ」の類である)。
情けないのは、我らが市長が「大垣市民に会場を貸さないことで、県や建設省のお覚えを良くしよう」と考えたことである。ひたすら「推進!推進!」と言えば、「建設省のお覚えが良くなり、国の事業や補助金をたくさん持ってきて貰える」という、悪い意味での(中央からおこぼれに群がる、という)タカリの田舎者根性、卑屈に中央集権に迎合する旧態依然たる意識。
多分、「建設省との対話」のことは全く考ず(建設省が「反対派」が設定する集会に出席するなどということがありうるとは想像もできず)に、「『徳山ダム建設中止を求める会』が申し込んだのは、全部貸出許可を取り消せ。他の会場も一切貸すな」と指示したのであろう。
反対運動のハの字もなかった徳山ダム建設事業。そこに「徳山ダム建設事業審議委員会」を設置した建設省の意図・文脈が全く読めていない、読もうともしていない。
お気の毒な当事者の一人が、現在、国交省中部地方整備局河川部河川環境課長になっているS氏(当時、建設省中部地方建設局河川部河川調査課長補佐)である。「OHPなどの機器どうするか、進行をどうするか」というような詳細を、私と打ち合わせていた最中であったが、いきなり具体的な打ち合わせが進められなくなってしまった(10月6日(4日前)になって、ようやく機器や進行のことの打ち合わせに入れた)。
小倉・大垣市長は「建設省のお覚えを良くする」どころか、「建設省に大変なご迷惑をおかけしてしまった」のである。
こんなアホな理由による使用許可取消が司法の場で認められるはずがない(向こう側の代理人の大塩弁護士は、さすがに「市政に反対する者には…貸せない」という小倉市長の言い分で返しては来ずに、それなりにもっともらしい理屈をつけた。その上で、大垣市側に「これは負けるぞよ」と宣ったそうである)。仮処分をとって会場を使用した。
この「事件」のおかげで、ささやかな運動体に過ぎなかった「徳山ダム建設中止を求める会」は少し全国に名が知られるようになった。
とんだ「宣伝効果」である。
今、改めて岐阜地裁の決定について見てみると、(当たり前だけど)憲法の「集会の自由」にちょっとは触れているんだぁ…。
「憲法で勝ち取ったスイトピアセンター使用許可」だった、と言っておこう。
私は、徳山ダム裁判に限らず、その前にも後にも、「お上を訴える」裁判の原告になっているし、そういう裁判の支援もやっている。
圧倒的に「お上」の勝ちであり、こちらは「敗訴のヤマ」を築くことになる。(08.4..17の自衛隊イラク派兵差止訴訟控訴審における画期的違憲判決の当事者-控訴人-でもある。画期的判決だが「敗訴」-敗訴でないと上告審でひっくり返される-。「敗訴」にも大きな意味がある)
敗訴のヤマに懲りてはいない。「裁判所に訴える」あるいは「訴える場を作る」ことはやめない。
私たち「徳山ダム建設中止を求める会」が、「ダム・河川問題」に登場する前に、長良川では長い長い「たすきをつないだ」裁判が行われていた。これらの訴訟は(マンモス訴訟の無念の「取り下げ」というのもあったが、判決に至ったのは)全て「敗訴」であった。裁判官の頭では理解できなかった、ということのようだ。
しかし、突っ張っている被告(河川管理者)は、実は、結構真剣に検討し、河川行政を変えてきたことを、私はこの十数年、いろいろな場面で感じている。
私は、日本国憲法第十二条前段が「好き」だ。
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第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
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by tokuyamadam
| 2009-01-16 17:17
| 過去の徳山ダム問題
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