荒崎水害訴訟チョー不当判決(2) |
それっていくら何でも酷くない?
水害訴訟の壁が厚いことは、この地域の人々の記憶にしっかりと刻まれています。(1976年の長良川の「安八切れ」安八訴訟で、第1審は原告勝訴だったのに、その後にすぐ「大東水害訴訟最高裁判決」があって、同じ裁判体の墨俣訴訟が敗訴し、その後安八訴訟も控訴審で敗訴となった)
「さてもにっくき大東水害訴訟最高裁判決」なわけです。判例検索が出来る方法もあるのかもしれませんが、私はその方法を知らないので、私は大東水害訴訟最高裁判決判決文そのものは読めていません。さらに具体に何が争われたのか、原告・被告双方の主張となるともっと分かりません。
読んだのは、大東水害訴訟に言及した「最高裁調査官解説」。これは論理的には実によくできていると思いました。同時に「川の具体を知らない、机上の空論だからこそ、こうも”普遍的”にしてしまえるのだ」、と感じています。(大東水害と長良川決壊水害を同列に論じられるかぁ?)
今回の荒崎水害訴訟弟1審判決が、 大東水害訴訟最高裁判決の枠組みでくるだろうことは、分かっていました。
しかし、大東水害訴訟最高裁判決も、 河川管理の瑕疵を判断するにあたって考慮すべき事情として、「過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情」を挙げています。
原告側は「諸般の事情」(ゆえに大谷川右岸の被災地への洪水防御-河川法1条に基づく河川管理-については「過渡的安全性」も有していないこと、予測可能性・回避可能性があったこと)について、詳しく主張・立証をしていきました。
例えば、同種同規模の他河川」として被告が出してきた「例示:水門川・板取川※」とは、水害発生のメカニズムも被害のありようも(被害規模が全然違うことは一目瞭然。「ありよう」というのは規模以外のことを含めて、です)、全く異なることを、原告側は相当に丁寧に明らかしました。けれど、判決は、たった2行ばかりで片づけました。(私個人としては、ここが一番腹立たしいところ)。
※ 「同種同規模の他河川/例示:水門川・板取川」は、提訴直前にアタフタと岐阜県河川課長名で各建設事務所に異例の情報収集させたものによる(私に言わせれば捏造)証拠から、被告が主張していたものです。これは「水害統計」をも無視した作為的・恣意的なシロモノであり、被害実態ともかけ離れたものでした。
「もし原告側に有利な部分が導き出せるとしたら、この”捏造”によるオウンゴールだ。あなたの貢献度は非常に大きい」と当時の岐阜県河川課長であり現在淀川河川事務所長である小俣篤氏宛に(淀川河川事務所のメルアドに)伝えておいたのに、残念!
原告側の主張を受けとめた上で、「大東水害訴訟最高裁判決」の枠組みで真っ向から否定されたのなら、まだ分かります(良くはないけど)。
判決書の「原告らの主張」は、全くの(意図的なのか、オバカなのかは分からない)無理解・曲解によるピンボケな纏めです。判決を読むと、あたかも、原告側が、全く河川及び河川管理を知らない無知蒙昧から勝手な主張をしているかのごとく見えてしまいます。これでは「裁判所による名誉毀損だ」と言いたい。
そして大東水害訴訟最高裁判決でも言及している「諸般の事情」を個別具体的に検討することもなく、ただ「河川管理の特殊性」の一言で切って捨てています。河川改修計画が存在しさえすれば(そりゃ何らかの「計画」は存在するでしょう)全て河川管理者は免責される、「凡そ河川管理は瑕疵はあり得ない」という乱暴な論理になってしまいます。
裁判所の思考停止、チョー手抜き。これでは「やってられない」。
「河川法第1章と第2章の間には、どう考えても巨大な間隙がある。実はそこにこそ真の『河川管理者としての責務』があるのではないかな?『河川管理とは』『治水とは』の有権解釈をきっちり聞きたいものです」と言ってから、3年ほど経ちますが、河川局-河川部から未だお答えを頂いていません。
河川管理者が『河川管理とは何か』を明確にさせられないのに、裁判所はいやにはっきりと「河川管理に瑕疵はない」と断じる、変なの。
岐阜地裁の判決は、全く酷いものでしたが、この日、岐阜地裁の裏庭に咲いていた水仙の花は可愛かった(どういう関係あるねん?)。
(続く)