赤坂湊(港)&若干のセンチメンタルジャーニー |
「予定は未定」で、19日に時間が空いた。
そういえば、もう「彼岸」に入っている…というわけで、亡夫の遺骨の一部が入っている赤坂のお墓に行くことにした。(この件は下のほうに)

「中山道・赤坂の宿」には古い歴史がある。1967年に、安八郡赤坂町は、大垣市に編入合併されたが、古くからの赤坂の住民には新参者である大垣の風下に立つことになってしまったことに、一種の屈折した思いがあるようだ(これが、「平成の大合併/大・大垣市or西濃市構想」が壊れた要因の一つである。垂井町では「赤坂の轍を踏むな!」と合併反対住民投票が盛り上がった)。
赤坂の古い住民は、今でも自分らを「大垣の人」と思っていない。
例えば、この日出逢った赤坂港会館管理人の80歳のオジサンはこういうふうに言う。
「あんたさん、赤坂の人やないね。どこから来やあした? 大垣かね、ほうかね」
「赤坂商工会」は今でも独立して存在しており、(当然のことだが)赤坂の歴史や観光については
赤坂商工会のホームページ
は、大垣市公式ホームページや大垣市観光協会ホームページよりも、充実している。
観光/歴史ガイド
赤坂について
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ここ赤坂は、大垣市の西北部に位置しており、西は垂井町、北は池田町や神戸町に隣接しています。
昭和42年に大垣市に合併した地域で人口は現在約15,000人です。
赤坂町の中心部を中山道が東西に通っており、江戸から57番目の宿場町として昔は問屋や旅籠が何十軒もあって大いに賑った所です。
又、赤坂には金生山という世界でもめずらしい山があります。標高217mの小さな山ですが、今から約2億5000万年前赤道直下に出来たサンゴ礁が、プレート運動によって盛り上がった山で、90%生物石灰岩で出来ているといわれています。そして、化石の種類の多さでも知られています
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さて、「川」にこだわるブログとしては、赤坂湊(港)に焦点をあてよう。

赤坂港跡 (赤坂商工会)
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中山道は江戸と京を結ぶ重要な道で、往古は多くの旅人でにぎわいました。
ここ赤坂の宿が宿場に指定される以前は、隣接した青墓が東山道の宿駅として利用され「傀儡(くぐつ)」(遊女)の宿場として特に有名でしたが、赤坂に杭瀬川の渡し場があって、青墓の宿からこの渡し場までの距離が離れていたため旅人の利便性を考え、渡舟を待つ旅人のため赤坂に宿ができました。そのため青墓の宿場が衰退して、赤坂の宿駅がにぎわいました。
杭瀬川は昔は揖斐川の本流だったが、享禄3年(1530)の大洪水で水路が大きく変わって支流になってしまい、河幅も細くなりました。しかし赤坂の上流の標高9百メートルの池田山から自然の湧水を集めて豊富な水量を有し、また港としての機能を十分に果し、物資の搬入や搬出はこの港が重要な役割を果たして来ました。一時は三百隻の舟がもやっていたと言われています。
このように、にぎわっていた港も大正八年八月、美濃赤坂線の開通にともない、合わせて昭和十三年に下流に水門が建設され、船の航行が困難となって赤坂港も廃絶しました。
ともあれ渡し場から発展した宿駅、そして港もその役目を終わり今は跡だけが歴史を伝えています。
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赤坂港跡 (大垣市のホームページ)

この港跡には、「赤坂港会館」がある。これは1992年に移築されたもので、元は中山道が谷汲街道とに分かれる四つ辻にあった警察の「屯所」だそうである。
赤い交番燈が残る。
(ガラスに自分が映っていることを発見)
赤坂港会館 (大垣市文化事業団)
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この建物の前身は、赤坂町の中心地にあたる中山道と谷汲街道の分岐点に明治8年(1875)に建てられた岐阜県警察第2区大垣出張所の第5分区屯所です。昭和7年(1932)に赤坂商工会議所として金生山山麓に移築され、その後昭和51年(1976)から昭和60年(1985)まで金生山化石館として利用されました。
この建物は、頂上装飾が載り、仕上げは大壁塗りで、隅は石張り形式、建具にはガラス戸や鎧戸を配した典型的な明治初期の疑洋風建築でした。しかし、建築当時の資料も殆ど残っていない状態で、痛みもひどく修復が困難なため、外観を復元し現在の地に赤坂港会館として建設しました。
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赤坂宿と道標
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赤坂宿は中山道57番目の宿場町として賑わいをみせたところ。又、西国三十三霊場最後の地として知られる谷汲山華厳寺へ続く谷汲街道の起点となり、石灯篭の道標がある。
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この四つ辻には、今でも代々本陣を務めた-石灰山である赤坂山=金生山の所有者-矢橋家の(実際にお住まい)住宅がある。
赤坂港に話を戻す。

赤坂港を運営した会所の名前が刻まれている。
バスを待つ時間にこんな写真を撮っていたら、赤坂港会館の管理人のオジサンに声をかけられた。おかげで土日しか開かない建物の中をチョイ見せて頂いて、チラシ的なものを頂いた。

(ついで:亡夫が幼いときに赤坂で育ったと言うと話がはずんで…。”やはり”共通の知り合いが存在する。そして、亡夫の従妹と彼の子どもが同級生だそうな。地方都市では”匿名性”は存在しないのである)
中味をPDFファイル版にした。(2枚)

今の小さな水路のような佇まいからは想像もつかないが、かつては、ここが揖斐川・杭瀬川を集めた本流であったという。そして往時は大きな船が着いたという。中山道という古来からの街道と舟運が交錯し、人と物が盛んに行き交う賑やかな物流拠点であったらしい。
金生山出土の化石は有名であるが(※)、ここは大理石の産地でもあった。
永田町の国会議事堂に、ここの大理石が使われている。運搬には、赤坂港からの船を使った、と聞いている。
※1996年11月24日「徳山ダム建設をやめさせ。山の再生を求める全国集会」
(1月25日付け)内の【◇フズリナの化石/全国集会参加者への「お土産」】参照)
金生山化石館 (赤坂商工会ホームページ)
金生山化石館 (大垣市ホームページ)
金生山の山頂には、明星輪寺(こくぞうさん 虚空蔵さん) がある。

美濃赤坂線の線路際からの虚空蔵さん遠望。望遠レンズがあれば、虚空蔵さんの建物の屋根が分かるように撮れたはずだが…
さて、亡夫の「お墓参り」である。遺骨の一部を入れたのは、その時に生きていた彼の母親の意向である。私には「彼がお墓にいる」という感覚はない。

天清院(どんりゅうさん 呑龍さん)

天清院のご住職にはご厚意を頂いているので、時折(本当に”たま”)にお墓に行き、本堂にお参りをする。
墓地の傍の水仙がきれいだった。

19日のウチの庭:

木蓮がしっかり開いた。
雪柳が満開。
