2009年 05月 03日
番外編 同志は斃れぬ-時代・世代・闘い |
番外編 同志は斃れぬ-時代・世代・闘い
5月2日、大阪の知人の急逝の報に接し、なんとか告別式に間に合うように駆け付けた。
大阪府門真の戸田ひさよし氏の「ちょいマジ掲示板」から
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
連帯ユニオン近畿地本・副執行委員長の川村賢市さんが、昨4/29(水)の午前中、出先のスポーツセンターで突然、脳幹損傷を起こして危篤状態になり、天王寺区の警察病院に緊急入院し、本日4/30(木)の早朝4:57分に亡くなった。享年61才。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
川村憲市さんとは、自衛隊イラク派兵差止訴訟の全国原告交流集会をもっていく中で知己を得た(11地裁・12訴訟(後に13訴訟)のうちの「関西ゼニカネ訴訟-本人訴訟-」のグループの中心的メンバーだった)。
天理教での告別式であったのは、少し意外だった。(「四拍手」という天理教のお祈りの仕方を、何故か私は知っている。正座して礼をするときの指のつきかたも)
会場は小さかったが、隣の公園と一体化した建物で、公園はたくさんの参列者であふれた。
太陽がまぶしく照りつける快晴。
少なくとも故人を追悼するために集まるその日の天候についてだけは、天は味方をしたのだろう。
この時期、「ご冥福をお祈りします」「安らかにお休み下さい」という気持ちにはなれない。
香典とともに、以下の文をおいてきた。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
同志・川村憲市さんに捧ぐ~ 同志は斃れぬ、闘いはこれから ~
川村憲市さん、あなたの訃報に接して、頭をよぎったのは、「同志は斃れぬ」という言葉でした。
川村憲市さんは、「闘いの先頭に立つ闘士」として常に勇ましく、また「共に闘う同志」として心から信頼できる人でした。
川村さんの不屈の精神は、必ずや、多くの仲間に引き継がれることでしょう。そして、川村さんが志半ばにして斃れたことそのものが、また、より多くの人々を奮い立たせるでしょう。
私たちは、真の平和と公正を全世界に広げるべく、闘い続けます。
闘って闘って、あなたの志の軌跡を追っていきます。次の世代に引き継げるような闘いを懸命に創っていきます。
同志・川村憲市さん、あなたの存在の思い出が、私たちを励まし続けます。私は「安らかにお休み下さい」とは言いません。どうか、千の風となって、これからも、常に私たちの闘いの場に共に居て下さい。
2009年5月2日
近藤ゆり子
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
出棺のときに流された曲は、故人が好きだったという網走番外地の主題歌だった。
この曲が流行った 「1960年代末から70年代はじめという時代」 -多分「新網走番外地」シリーズが若者に浸透した頃-。
川村さんと私は、空間としても立場としても、全く異なる場に居た … それぞれの場で「あの時代」を共有していたのだ、という思いが込み上げてきた。
「あの時代」の、一日一日、一刻一刻は、今も鮮やかに蘇る。
誰もまともに「総括」を言葉にしきれていない。
多くの過ちがあった、犠牲もあった-非業の死もあった-。
それでも「あの時代」を懸命に走ったことを、私は誇りに思う。
歴史の検証にさらされる時のために、なにがしかの手掛かりを遺しておきたいと願っている(同世代の訃報に接することが多くなった。残された作業時間は多くない)。
<090509追記>
戸田ひさよし氏の弔辞(戸田氏のブログから)
◆「反戦平和・階級的労働運動の情熱の闘士」川村さんへの戸田の弔辞。(5/2告別式)
戸田氏も<今、労働者民衆に害悪を与える政治経済が続く中、「安らかにお眠り下さい」と川村さんに言うことは出来ません。>と述べた。
同志川村! プレセンテ!
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
告別式会場 東成区 神路ふれあい会館傍の水路。
小なりといえども一級河川。大阪府知事指定区間らしい。
右は、大今里橋から撮影したもの。
水面にゴミが浮かぶ。
かすかではあるがドブの臭いがする。
(名古屋の堀川と同じ)
淀川本川 JR大阪駅-新大阪駅の間の車窓から

5月2日、大阪の知人の急逝の報に接し、なんとか告別式に間に合うように駆け付けた。
大阪府門真の戸田ひさよし氏の「ちょいマジ掲示板」から
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
連帯ユニオン近畿地本・副執行委員長の川村賢市さんが、昨4/29(水)の午前中、出先のスポーツセンターで突然、脳幹損傷を起こして危篤状態になり、天王寺区の警察病院に緊急入院し、本日4/30(木)の早朝4:57分に亡くなった。享年61才。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

天理教での告別式であったのは、少し意外だった。(「四拍手」という天理教のお祈りの仕方を、何故か私は知っている。正座して礼をするときの指のつきかたも)
会場は小さかったが、隣の公園と一体化した建物で、公園はたくさんの参列者であふれた。

少なくとも故人を追悼するために集まるその日の天候についてだけは、天は味方をしたのだろう。
この時期、「ご冥福をお祈りします」「安らかにお休み下さい」という気持ちにはなれない。
香典とともに、以下の文をおいてきた。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
同志・川村憲市さんに捧ぐ~ 同志は斃れぬ、闘いはこれから ~
川村憲市さん、あなたの訃報に接して、頭をよぎったのは、「同志は斃れぬ」という言葉でした。
川村憲市さんは、「闘いの先頭に立つ闘士」として常に勇ましく、また「共に闘う同志」として心から信頼できる人でした。
川村さんの不屈の精神は、必ずや、多くの仲間に引き継がれることでしょう。そして、川村さんが志半ばにして斃れたことそのものが、また、より多くの人々を奮い立たせるでしょう。
私たちは、真の平和と公正を全世界に広げるべく、闘い続けます。
闘って闘って、あなたの志の軌跡を追っていきます。次の世代に引き継げるような闘いを懸命に創っていきます。
同志・川村憲市さん、あなたの存在の思い出が、私たちを励まし続けます。私は「安らかにお休み下さい」とは言いません。どうか、千の風となって、これからも、常に私たちの闘いの場に共に居て下さい。
2009年5月2日
近藤ゆり子
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
出棺のときに流された曲は、故人が好きだったという網走番外地の主題歌だった。
この曲が流行った 「1960年代末から70年代はじめという時代」 -多分「新網走番外地」シリーズが若者に浸透した頃-。
川村さんと私は、空間としても立場としても、全く異なる場に居た … それぞれの場で「あの時代」を共有していたのだ、という思いが込み上げてきた。
「あの時代」の、一日一日、一刻一刻は、今も鮮やかに蘇る。
誰もまともに「総括」を言葉にしきれていない。
多くの過ちがあった、犠牲もあった-非業の死もあった-。
それでも「あの時代」を懸命に走ったことを、私は誇りに思う。
歴史の検証にさらされる時のために、なにがしかの手掛かりを遺しておきたいと願っている(同世代の訃報に接することが多くなった。残された作業時間は多くない)。
<090509追記>
戸田ひさよし氏の弔辞(戸田氏のブログから)
◆「反戦平和・階級的労働運動の情熱の闘士」川村さんへの戸田の弔辞。(5/2告別式)
戸田氏も<今、労働者民衆に害悪を与える政治経済が続く中、「安らかにお眠り下さい」と川村さんに言うことは出来ません。>と述べた。
同志川村! プレセンテ!
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

小なりといえども一級河川。大阪府知事指定区間らしい。

右は、大今里橋から撮影したもの。
水面にゴミが浮かぶ。
かすかではあるがドブの臭いがする。
(名古屋の堀川と同じ)
淀川本川 JR大阪駅-新大阪駅の間の車窓から

by tokuyamadam
| 2009-05-03 00:55
|
Comments(1)

こちらでは初めまして。
「同志は斃れぬ(倒れぬ)」をご存知とは意外でした(もっと
お若いと…)ので思わず。
無駄話をお許しくださいね。
私が某労組の書記長を務めていた若かりし頃(40年も以前)…。
会社が労組変質のために送り込んできた役員と私の二人で
北海道方面にオルグ(分かりますか?)に出向きました。
宿泊して目覚めたら、そのHさん(後に会社重役!)いわく、
「昨夜夢を見ました。あなたが旅先で亡くなり、赤旗で包み、
”同志は倒れぬ”の流れる中を葬儀が進んでいくのです…。
感動しました」(私の反応を試しているのです)
私「憎まれっ子世にはばかるですから、当分死ぬことはありま
せん。もし死んだらその時の曲は”故郷”にしてください」
まだ20代半ばを過ぎた位であったのに、その当時からマーク
されていたのでした。
労働組合が社会的な力を失って、相当経ちました…。
でも、私たちが最後には勝つのですから、
私は、田舎街で大らかに「弛まず・力まず」に立ち続けましょう。
「同志は斃れぬ(倒れぬ)」をご存知とは意外でした(もっと
お若いと…)ので思わず。
無駄話をお許しくださいね。
私が某労組の書記長を務めていた若かりし頃(40年も以前)…。
会社が労組変質のために送り込んできた役員と私の二人で
北海道方面にオルグ(分かりますか?)に出向きました。
宿泊して目覚めたら、そのHさん(後に会社重役!)いわく、
「昨夜夢を見ました。あなたが旅先で亡くなり、赤旗で包み、
”同志は倒れぬ”の流れる中を葬儀が進んでいくのです…。
感動しました」(私の反応を試しているのです)
私「憎まれっ子世にはばかるですから、当分死ぬことはありま
せん。もし死んだらその時の曲は”故郷”にしてください」
まだ20代半ばを過ぎた位であったのに、その当時からマーク
されていたのでした。
労働組合が社会的な力を失って、相当経ちました…。
でも、私たちが最後には勝つのですから、
私は、田舎街で大らかに「弛まず・力まず」に立ち続けましょう。
0