名古屋・堀川・桜橋・日の入り前 |
4月30日、たまたま桜通を徒歩で歩いた。
国際センター → 丸の内 に用があって、1駅だけ地下鉄に乗るのはモッタイナイと思ったからだ。
もう日の入り間近な時刻(17時過ぎ)に、堀川・桜橋を通った。
川面から立ち上るかすかなドブの臭い。これは50年以上前に隅田川(東京)で、そして40年ほど前に神田川(東京)で嗅いだ臭いだ。
橋を渡り終えて、ふと振り返ると、川に向かって降りていく階段がある。降りてみた。
階段の下に、こんな鉢植えがあった。
階段を降りてみると、川沿いに、狭い通路のようなものがある。
エアコンの屋外機などが置かれていて、通るのは難しいが、いくらか進んで桜橋の下を覗いてみた。
街中を流れる川には、その街に根付いた人の特別な思い入れがあるものだ。
今、私は「岐阜/長良川」に、”岐阜人”の特別な思い入れを見ている。
名古屋・堀川も、堀川の傍に住む人の熱い想いがあると聞いている-実際に熱い想いがあるのだろう。名古屋市の真ん中の堀川端の鉢植えにもその想いの一端を感じた。。
しかしその想いが即「他水系の水をもってきて『浄化』しよう」となるとしたら、水を取られる(上流地域)側からは、「下流の地域エゴ」としか見えない。
もし、「大量の水を余所から持ってきて、堀川の汚濁物資を一気に伊勢湾に押し流してしまえ」ということであるとするなら、「自分の庭をきれいにするために、汚い物は塀の外に投げ捨ててしまえ」という乱暴な論理であり、環境・生態系に何の顧慮もないお粗末な論理である。
木曽川水系連絡導水路事業を望む声(細々としか聞こえないが)の中には、「徳山ダムで確保した水を導水路を通して堀川[『浄化』に使う。環境のためだ!」というものも混じっている、ということも聞く。
尾張・名古屋の堀川の『浄化』のために、山奥の徳山村は消えてなくなっても構わない? 堀川『浄化』することが、「生物多様性COP10を開催する環境都市・名古屋」の流儀に適うから、徳山のイヌワシ・クマタカの棲息を危うくしても良い?
川と街を愛することは、人を、文化を、歴史を、自然を愛することであるはずだ。
堀川の傍に暮らし、真に堀川をより良い川として我が手に取り戻し、未来に手渡そうとする人の中からは、まさか上記のような『浄化』暴論は出てこないと信じる。