大垣まつり-八幡さんと‘やま’と町 |
5月9日夜、大垣駅から自宅に向けて自転車を走らせている途中で、本町・貴船橋の傍らで、大垣まつり「夜宮(よみや)」から戻る‘やま’に出逢った。
右の写真で、‘やま’が傾いているのは、交差点で向きを変えるため。
普段は4輪で曳いているが、‘やま’の向きを変えるときには、曳き手が体重をかけて2輪に全重をかけて向きを変える。この呼吸を合わせることも曳き手の醍醐味のようである。
夜の闇に提灯の灯りが遠ざかるのも、一種、幻想的である。
水門川の川面にほんの少し光が投じられている。
‘やま’というのは、篇が車、旁が山の一文字である。
新聞見出しで字を示す。
残念ながら、コンピューターではこの文字はないようである。
この字でないと大垣まつりの‘やま’の風情は出ないのに。伝統行事であればこそ、呼称も字も重要。一部「山車(だし)」と表現する新聞記事なども見るが、「だし」では大垣まつりで曳き回される‘やま’とは別物に化けてしまう。
まずは、大垣市ホームページ 大垣まつり から
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城下町・大垣に初夏の訪れを告げるまつり
360年余の伝統を誇る大垣まつり。
このまつりは、正保5年(1648)大垣城下町の総氏神であった八幡神社が大垣藩主戸田氏鉄公により再建整備されたおり、10か町が10両のやまを造って曳回したのが始まりです。延宝7年(1679)に、藩主戸田氏西公から、神楽やま・大黒やま・恵比須やまのいわゆる三両を賜り、それを機に十か町は、やまの飾りつけに趣向を凝らしていきました。
しかし、濃尾震災や先の大戦によって多くのやまを失い、現在は、11両のやまが華麗な元禄絵巻を繰り広げています。
大垣まつりの特徴でもある2.2里(約8.8km)の本楽やま巡行は、東回りと西回りの年次交代で行われています。
また、約600店もの露店が軒を並べお祭りムードを盛り上げています。
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十五日に、野暮用(図書館で捜しもの)ついでに八幡神社(八幡さん)前を通った。
旧暦の五月十四・十五日のまつりが、太陽暦の五月十四・十五日になったときに、すでに「360年の歴史」の元の季節感とは相当にずれたことだろう。
私が大垣に来たのは1977年。その頃は小中学校も「五月十四日は午後から、十五日は全日が休日」であった。
今は五月の第2土日にしてしまったから、学校の授業への「支障」はなくなっただろうが、まつりの持つ季節的節目としての意味あいはどうなのだろう?
八幡神社は(大垣城の堀として使われた)水門川の「曲がり角」に位置し、まつりの際は、水門川沿いに露店がところ狭しと並ぶ。‘やま’のコースも水門川沿いの部分も長い。
日中、市内を曳き回された‘やま’は、水門川沿いで一休みする。
そして、夕闇が濃くなってから、提灯で飾られて、八幡さんの鳥居の前でからくり人形を披露する。
実は‘やま’と水害は無縁ではない。
‘やま’を持つ町は、古くから城下町を形成してきた町であり「格が高い」。これは「(周辺が水害に遭っても)水が浸かない場所」であることを意味する。‘やま’は、周辺の犠牲の上に立つ「誇り高き町」の象徴なのだ。
沖積平野の低平地に平城を造り、城下町を形づくった歴史からいえば、当然なのかもしれない。
だが、今という時代にそれで良いのか?
今や、日本中が、大垣という一城下町の規模を遥かに超えた規模の大都市を、沖積平野の低平地に形成した。「近代治水」をもってしても河道にすべての洪水を押し込めることは不可能である。(まして「川の最上流部にダムを造れば、もう水害はなくなる、安心」などというのは完全なデマ。河川局はそうまでは言ってはいない-「(さまざまな条件が重なれば)基準地点の水位を1mか2mか下げられる」というが。この( )内が、きちんと説明されないまま、建設のメリットだけが強調されてきた。これは、PRの部類で許されるのか、虚偽・誇大広告か?)
大垣まつりの‘やま’のもつ「誇り」を伝承していくためにも、大垣輪中-大垣城下の水害の歴史をもっともっと知る必要があるだろう。
大垣まつりを報じた新聞記事(電子版)。
当たり前のことだが、写真は私のものよりずっと良い。
岐阜新聞 09.05.10
連なるちょうちん幻想的 大垣まつり「夜宮」
読売新聞 09.05.10
豪華けんらん、大垣まつり開幕
中日新聞 09.05.10
城下町の夜彩る「やま」勢ぞろい 「大垣まつり」開幕
中日新聞 09.05.11
豪華な“やま”練り歩く 大垣まつり本楽
中日新聞 09.05.12
11両のやま、華麗さ競う 大垣まつり
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