中日新聞西濃版連載「ふるさとよ 旧徳山に生きる」 |
2009年8月15日、16日、18日と3回連載で中日新聞西濃版に「ふるさとよ 旧徳山に生きる」が載った。
どういう意味かはいろいろだが、存じあげている方ばかりである。
◇ ◇
林ご夫妻には、まだ中学校の体育館の建物が残っている頃、旧上開田で営んでいるお店でお目にかかった。すぎ子さんは強く言われた。「私らがダムに反対して頑張っているときには何もしないでいて、今頃になって何さ!」。
『私らがダムに反対して頑張っているとき』ということには、いくつもの注釈が必要であろう。いわば「徳山村正史」とされるものでは、大昔(1950年代)に村議会で反対決議があって以来、「反対」という正式の声はなかったことになっている。しかし「ダム反対派」とレッテルを貼られることが、村八分の理由にされそうなときにも、何らかの意味で徳山ダム建設を止めよう、故郷を守ろう、と頑張った人たちがいた。
若き日のすぎ子さんもその一人だった、と仄聞している。
しかし、哀しいかな「ダム反対派」は結束しきれなかった。そのこともまた「徳山村正史」では「反対運動がなかった」とされてしまう一因でもある。
「今頃」と言われながら「徳山ダム建設中止を求める会」を立ち上げた後、集団移転地へのチラシ入れ(戸別配布)は何度も行った。例えば徳山ダム審議会の傍聴でお目にかかった旧徳山村の方には、別の場でお話を伺えるように努力した。何らかの紹介を受けた方のお宅を訪ねることもあった。 決して旧徳山村の方に会員になって貰おう、などということではなく、まして旧徳山村民の声を表に立てて運動をしよう、などと考えたわけではない(「徳山ダム建設中止を求める会」は、下流域住民の運動体であって、どういう意味でも旧徳山村民の立場を代弁しない、しえない)。
ただ、「今頃」徳山ダムについてモノを言うからには、いわば仁義を切っておく必要があると思った。「今頃何さ!」と罵声を浴びることも、私たちには必要なことだと思った。
いろいろな方とお話をしていて、「決して他の方のお名前を出してはいけない」ことを知った。「そういえば、そのことは○○さんもおっしゃっていました」などとうっかり口にすると、「あの○○というのはとんでもない奴でウソばかりつく。あんな奴の言うことを信用するなら話をしてもしょうがない、帰れ」という仕儀になってしまう場面もあった。
遠くではまるでダム反対派だったかのように言われているある人について、「あの推進派めが!」と舌打ちをした方もいる。
まさに「何もしないでいた」私たちには窺い知れない複雑なものがあることだけは分かった。
林ご夫妻のお店は、徳山ダム建設工事を前提に成り立っているお店であった。建設業者の機械への燃料補給も「商売」の要であった。「反対とか言っていたくせに、ダム工事で儲けている」という人も旧徳山村出身の人の中には居られた。それを口にされた方にはその方のダムに向き合った長い「来し方」があったのだろう。私たち外部の人間がとやかくいえたものではない、と思う。
当然のことながら、堤体の本格着工によって、林ご夫妻のそのお店もなくなった(コア材を運ぶ90トンダンプ用道路になってしまった)。
この記事にも少し出ているが、いつかの時点で林ご夫妻は門入に土地を求めた。このことが明るみに出たとき、旧徳山村の方々の中から怒りの声があがった。
「何でこんな例外が認められたのだ?おかしいではないか!自分たちがそういう希望を出したときは拒絶されたのに、何でだ?」と。
「全村移転と決まった。沈まない門入も全部村外移転だ」とされて補償交渉は行われた。「水没線以上の土地に移転するとか、沈まない門入に引っ越すとかいう選択は認めない」と告げられていたのだ。
特に集落が水没線より上にある門入では、「故郷に残るという選択肢はない」とされたことには、納得できない人も多かった。それでも一種の詐欺のような手を使って、水資源開発公団(現水資源機構)は、「全村移転」補償交渉をまとめた。
故郷・門入を去りたくなかった人になっては、「門入にもとからいた者に認められなかったことが何で特別に認められるのだ? 有力者の親類だからか?」と不満が出るのも当然であろう。
しかし、要するに悪いのは国-水資源公団の二枚舌の類である(林さんご夫妻を責めるのは酷であろう)。
「ふるさと徳山村で暮らしたい」という林さんご夫妻の思いはホンモノである、と私は感じている。
◇ ◇
神足さんは、北方町に移ってからも欠かさず山(山林)の手入れをしてきた。居宅としては、故郷を離れることになっても、山はずっと慈しむべきものであり、次世代に伝えておくべきものだ、と考えていた … だのに「里帰り」もままならなくされてしまった …。突然の「西谷道路は造らない/公共補償協定変更」は不条理である。
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廣瀬博さんは、「水になった村」に登場する廣瀬司・ゆきゑ夫妻の長男である。東京商船大学を出、高級船員として世界の海をまたにかけ、海事協会では日本や海外での海難審判などにあたった(西谷道路の問題などで急を要するとき、マレーシアからお電話を頂いたこともある)。大型の商船運航の知識と技術をもつ人はそう多くはない。記事にもあるように、海事協会は引き止めたことだろう、と思う。しかし博さんは「定年になったら門入の故郷に帰る」ことをずっと楽しみにしておられた。
「ふるさとはここしかない」
そう感じて門入に住まう方は廣瀬さんだけではない。