水没住民と下流都市住民-雑感 |
8月20日遅い夕食を摂っているときに何気なくTV(普段「NHK総合」にチャンネルが合っている、あまり意味もなく)を見ていたら秩父の山奥のお年寄りを追った番組でした。一気に感傷的になってしまいました。
ここ数年は、淀川流域委員会など、立場の違いがあってもダムを巡る議論を真面目にやる、という場は現れてきました。しかし(淀川水系流域委員会ではそういう場面がなかったから、といえば、その通りですが)故郷を湖底に沈められた(あるいはこれから沈められるとされる)人々(当事者)の本当の思いは語られることはなかったように思います(※)。
※ ダムを作りたい人たちが「水没地から移転した人が『早くダムの完成を見たい』と言っている」という類のダシに使うために発言させられているのは何度も見ていますが、そういう類の発言が「有った」かどうかを云々する意ではありません。
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総貯水量6億6000万立方メートルの徳山ダムの水没移転補償交渉対象世帯は466世帯。約1600人だそうです。
岡山県の苫田ダムは、ずっと小さなダム(総貯水量8410万立方メートル)なのに、故郷を追われた人に数はもっと多い。
苫田ダム予定地を初めて見たときは驚きました。
あえて言います。
徳山ダムは、「ダムは正義」だった時代には、それなりに合理的なダムだったと思います(社会情勢の変化で目的を喪失してしまった。巨大ゆえ環境改変の程度も大きいこのダムは建設するべきではなかった、と死ぬまで言い続けますが)。
地図を見ると本当に狭い場所(徳山村-藤橋村の境)を塞ぐと、巨大なダムができる地形なのです。その後の調査で思いのほか地盤が悪く、大きく岩盤掘削をすることになって堤体も巨大なものになってしまいましたが、当初のダム屋さんの「思いつき」としてはナルホド納得なダム計画でした。
苫田ダムは違う。
もともと比較的開けたところで、人口もそれなりに集積していました。
8410万立方メートルのダムを作るのに2箇所も堤体を作らねばなりませんでした。
多くの人を無理矢理に追い立て、大工事を施すわりには小さなダムを作る・・・まことに不思議なダム計画でした。
苫田ダムについて、私が若干でも関わったのは最後のほうだけで(強制収用されました、ナンボが供託されたのかも知らずじまい)、壮絶な反対運動があったことと、その切り崩しと弾圧が凄まじかったことは、主として津山市で反対運動の先頭に立った矢山有作さんからお話を伺いました。
矢山さんらが文章にして外部に訴えたことはたくさんありますが、それ以外に「ああ、それは・・・・ちょっと言えないだろうな」という辛い話も聞きました。水没地権者の間に厳しい分断と対立を持ち込む策謀・・・外部の人間が、対立する水没地権者のどちらか一方の側に立つことは難しい問題だと感じました。地元の反対運動は常にそうやって潰され、外部の人間はそこで立ちすくんでしまうのです(津山における矢山有作さんの存在はそれを超越していましたが)。
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徳山ダムでは「地元の反対運動」はなっかった、とされています。
そのことこそが「無惨だ」と私は感じます。
「ダムを作らせたのは便利さを求めた僕たち」という大西暢夫さんの言葉が重なります。
下流都市(大都市)住民の論理が山村をも席巻し、徳山村の人たちを早い段階で「諦め-条件闘争」に追い込みました。
その責任のいくらかは「私」にもあると思います。
かつて大都市(東京)で暮らし、東京の(「帝國大學」の、とつけたしておくべきか)発想法を骨の髄まで染みこませた私。
揖斐川流域の中心都市である大垣に移り住んで「揖斐川流域の都市の論理」を何らかの形で体現してしまっていた私。
1995年12月。
徳山村廃村からすでに8年以上経ち、すべての水没住民の移転が終わっていたから、私たちは声を上げることができたのでした。それまで声を上げられなかったことにつき、「怯懦」と批判されることに甘んじます。
移転補償交渉のただ中であったら、(遠く名古屋あたりならともかく)、この揖斐川筋・大垣でどういう声を上げれば良いか?
(今でも分からない。1957年に徳山ダム構想が浮上したときから、ずっとこの問題を注視してきた上田武夫代表も「どうして良いか分からなかった」と言っています。)
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私が「徳山村」を見てきた経験からいえば、マスコミが簡単に使いたがる用語-「ダム賛成派・反対派」-などと括って何かがいえる、そんなものではありません。
生まれ育った自然、駆け回った山河。積極的に「故郷を湖底に沈めたい」人がいるはずはありません。
しかし「国が決めたことを覆すことはできない」というのが常識でした(三里塚の空港反対運動を想起してみて下さい)。
「決まったことであって、もう覆せない」と思ってしまった村の人が、少しでも村のため、自分の家族のためを思い、かたや「建設促進」で動きながら、他方で建設を足踏みさせるようなあれこれの動きに力を貸す … 当たり前です。
その一端さえ知らないで、水没移転住民の「思い・気持ち」などを軽々しく口にする行政や「何とか委員会のセンセイ」を、私は許しません。
同時に、水資源開発公団-水資源機構の普通の職員のことを、私は一方的に責めることはできません。
客観的には、水資源開発公団-水資源機構の職員は、徳山村の人たちに対して「ウソツキまくり」「約束は反故にしまくり」です(聞くところによれば、川上ダムでも同様だそうだ)。しかし個々の職員はそれぞれ「善人」です-組織が組織内の人間を騙している、ともいえます(「組織とはそういうもの」なのかもしれません)。
2006年9月の徳山ダム試験湛水の強行には、地権者からの猛反発がありました。
水資源機構の若い職員が、超過勤務の挙げ句に心を病み、2007年1月に自殺しました。
翌年に労災認定が出て、自閑茂治・徳山ダム建設所長は更迭されました。
私はこの経緯を徳山ダム建設所職員から(アバウトに、だが)聞きました。
「2006年9月に超過勤務が100時間を超えていたのは事実。でも…自分らだって20代の頃は100時間の超勤なんてしゅっちゅうだった。だけどそれですぐに病気になるなどということはなかった。この労災自殺は、超勤時間の多さ問題だけではない、仕事の中味の問題だった…・。自閑所長は、そこはよく分かっていたから、労災認定がきっちりとれるように配慮し、自ら『更迭』『処分』を受ける形で責任をとったのだ、あの人らしい」
水資源開発公団-水資源機構の職員の労組である「水資労」は3代続けて委員長が自殺した時期がありました。「親戚組合」である名古屋水道労組の組合役員の一人が呟いていました。「真面目に仕事の中味まで考えてしまうと、精神的にどうにもならなくなってしまうのだろうな」と。
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今この瞬間にも、例えば石木ダムのように「命を賭けて」この土地はダムにさせない、と頑張っている人たちがいます。
どんなに不要で無駄なダムか、について語る人を紹介することは、私たちにもできるでしょう(すでに語られている、マスコミにも採り上げられている)。
しかし、私たちは、「命がけで先祖伝来の土地を守ろうとする思い」まで受けとめているのでしょうか?受けとめていけるのでしょうか?
「徳山ダム建設中止を求める会」発足当初は、「今頃『徳山ダム建設中止を求める』なんて。徳山村の人たちの苦渋の選択を何と思っているのだ!」という類の非難の大合唱を受けた(想定内)。
今はもうそういう非難をぶつける人はいない。
「できちゃったから」ということもあるだろうが、この大垣でも普通の人が「いかにも無駄な巨大ダム。20世紀の負の遺産」ということを口にするようになったという「地域世論の流れ」もあります。
足かけ15年近く、この地に居座りつつ、発信を続けていると「『徳山ダム建設中止を求める会』は、徳山村の人たちの苦渋の選択を理解しようとしない大阪や東京の連中のお先棒担ぎをしている(アホ)集団」という非難が通らなくなっているからでもある(継続は力なり?)
その一種の自信の上でなお問います。
私たちは、「命がけで先祖伝来の土地を守ろうとする思い」まで受けとめているのでしょうか?受けとめていけるのでしょうか?