強行軍!「ALL木曽三川(中・下流部)『問題』」見学ツァー -① |
長良川市民学習会のM事務局長が言い出した。
「『導水路はいらない!愛知の会』と『長良川市民学習会』の共同企画(共催)で、1泊2日の『木曽三川(中・下流部)『問題』箇所見学ツァーをやろう。長良川河口堰から、下流施設予定の背割堤、遡って途中で安八切れ決壊箇所や犀川騒擾事件があって新犀川となったところ、西平ダム、徳山ダム、そして導水路のルートを通って長良川・古津や川原町を見、犬山までの問題箇所を見て歩こう。」
5月にすでに別団体の企画で実行したことは聞いた。「興味あるぅ・・・だけど聞くだけでも『大変』そう」・・・というわけで「好き」なのがマイクロバスを借りて見学ツァーを決行。
M事務局長が用意した資料は膨大。(年表だけでこうだもの-PDFファイル)
ガイドパンフに沿って、それなりに項目を書いていったら、大論文になってしまいそうなので、て写真中心に独断と偏見の感想-サワリのみ-。
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9月26日午前8時45分に名古屋駅集合。なんせ課題いっぱい詰め込みのツァーだから1箇所での見学時間はが限られていることを、引率者のMさんにキツク申し渡された。
まずはアノ長良川河口堰へ。
私は「長良川河口堰工事誌 ながら」を貰いにアクアプラザに行ったので、河口堰の上は歩けず。自転車を借りて、きっちり堰の上を往復した人もいたけど。
「長良川河口堰工事誌 ながら」は受け取った瞬間に身体が傾きそうなほど重厚な本。967ページ、上製 箱付き・・・・
発行年は記載がないが、本格運用時くらいまでしか記述がないから、およそそんな頃に編集に入ったのであろう。あの時にこういうものを作ろうと考えたこと、その制作にかけた人件費と印刷代(&「情熱」がないと作れない、こうしたものは)・・・・。「見えているものが大きく違っていたんだぁ」と改めて思う。そして本格運用15年目にしてまだ無料で渡せるほど残部がある、という事実。アクアプラザの運営費も納税者と水道ユーザーが負担しているのだ、という事実。うううむむむ。
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長良川河口堰の直下(正確には少し上流側。この時刻、丁度堰本体の影の中に入っていた)に、こういう堤防の段差がある。多分、河口堰本体は地下深く基礎を打ったので、それほど沈まないが、普通の堤防の部分はどんどん沈んでしまっている、ということなのだろう。
こういう状態で「洪水防御のための河口堰」といわれてもねぇ・・・橋一つ架けるのも、河川管理者は「洪水の流下を阻害する要因となる」と嫌う。河口堰の場合も、ゲートを全開しても、流下能力は、堰が存在しないときより小さい。そういう「無理」があるのに、上流側の堤防は沈下し続けている(たった15年でこのくらいの差になる)。つまり、単純に言っても堰の存在する部分は(堰柱の存在だけでも)流下能力は小さくなっているわけだから、堰上げが起こって上流側の水位が上がるのではないか?それなのに上流側の堤防が沈下していて、大丈夫なのか?
徳山ダムの洪水防御効果は、国交省の言い分を全部聞いても「ないよりあるほうがマシ」と言っているにすぎない、と思っていた(「財政上の制約」の観点からいえば、揖斐川の、そして木曽川水系の、堤防等の改修を遅らせたという意味で、大変に「有害で危険」な建設事業であった-あり続けている-)。
長良川河口堰のこの姿は、長良川沿川の人々が半世紀前に「長良川河口ダム」構想を聞いた瞬間に感じた「危険」が的を射たものであった、と思わせるに十分な姿である。やはり「ないよりある方が危険」としか思えない。
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さてこの長良川河口堰から水道水を取水する長良川導水取水口(知多浄水場に送られる)。ご覧の通り、取り入れ口の柵には、ゴミだけでなく、魚の死骸、オオマリコケムシの塊など、およそ「この水は飲みたくない」と思わせるに十分な「美しくない」ものがずらっと並んでいた。
水は余っている、だのに「必要だ」のアリバイづくりのために知多浄水場で活性炭を使って処理された(高度処理しているから良いのだ、と愛知県企業庁は言う)水を押しつけられている知多半島の方々は、この現状をとくとご覧になって頂きたい。
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長良川右岸を遡りながら、明治の大改修についての解説を聞いた。「明治の大改修」では、新たな河道とすべく、数多くの集落と耕地を潰した。「大の虫・小の虫」論である。
PDFファイルの斜線部分が集落と耕地を奪って河道にした部分。
ある意味「スゲエ」。
洪水防御のためには何千人かの暮らしを根こそぎ奪っても構わない、それが進歩・発展なのだ、という発想は、その後のダム建設で初めて出てきた話ではないのだった・・・旧内務省-建設省-国交省と続く「お上」は、それを「ごく当たり前」と思っていたのだ、ということを改めて知った。解説によれば、こうして田畑と住居を失った人々が北海道の開拓に向かった(行かされた、というべきか)のだそうな。
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この大改修で、木曽三川が分離された。分離されると水位は同じではない(いつでも同じであれば分流の意味がなくなる)。それまで自由に往き来していた船の通行を保つために作られたのが船頭平閘門である。小ぶりのパナマ運河、と思って頂ければ良い。
上の船頭平閘門の写真は行政のものを拝借。
今でも活きているが、もう荷物を運ぶ船は通らない。ちょっと聞いたら、大体年間800隻~1000隻、レジャー用の船が8割で、あと小型漁船だそうである。閘門の通行料は無料。レジャー用の船をタダで(=税金を使って)木曽川・長良川を往き来させねばならない理由はあるのだろうか?
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ここも閘門を見ずに、木曽川文庫のほうに行ってしまった。左のものは「薩摩公御手伝普請目論見絵図」とある。こういう古図を見る度にこの地域の歴史を思う。この地帯は、まず川があって(自由奔放に流れていて)その氾濫で堆積した肥沃な土地に人が田を拓いて住み着いたのだった。人の都合で固く小さく堤防内に閉じこめられた川は、ときに暴れる・・・川の側からすれば「たまには自由に流れたい」。
いっとき、人は大規模な人工構造物で川を制御できるかのような幻想を抱いた。だが、人の出来ることには限りがあることを、20世紀末になってようやく知ることになった(浅薄なり、西欧「近代」の安易な輸入)。自然のありようと「ボチボチ」折り合いをつけながら、人は暮らしていくしかない。流域住民がもっと川を知り、伝統の知恵を「再発見」して体得していくべきときが来た。
何も「近代の超克」などというほどの大袈裟ことではない、市井のお年寄りは皆知っていた。権力をもつ人たちが、その価値を認めようとしなかったのだ(学校教育のカリキュラムからも排除して「伝える」ことを断ち切った。この罪は大きい)。
この稿 続く