「長良川漁師口伝」について |

大垣図書館にリクエストし、借りだして・・・・多忙にかまけて余り読み進めないでいるうちに期限(本日22日)が近づき「再貸出」をして貰おうと、図書館に行ったら「予約が入っています」とのこと(19日。次に「予約」が入っていることは珍しい。読みたい人が多いことは有り難い)。予約が入っていれば期限までに返すのがルールである(常識というべきだろう)。
で、この3日間、重い本を持ち歩き、寸暇を惜しんで読んだが、隅々までは読めていない。書棚に置いておくべき価値がある。購入する手続きをすすめるしかあるまい。
このブログでも度々紹介した岐阜新聞連載の「ぎふ海流」
http://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/2010/gifu_kairyu/
でも取り上げられて
第8章 次代へつなぐ(2010年 5月23日(日))
川漁師の口伝出版 長良川の生き証人追う
http://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/2010/gifu_kairyu/8/gifu_kairyu8_7.shtml
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「長良川は人とのかかわりが濃い、日本を代表する里川。僕は部外者だが、岐阜県の素晴らしい宝物です
愛知県一宮市の磯貝政司さん(68)は同県新城市出身。元モーレツ企業戦士で全国を歩いたが、1973(昭和48)年、一宮市に居を定めて公務員に転職。余暇に木曽三川や長良川流域を歩き、92、93年に名古屋市と岐阜市で写真展を開いて、アマチュア写真家として名を上げた。
そんなころ、羽島市の長良川でサツキマスを追う地元の川漁師に出会った。今も現役の大橋亮一さん(75)と修さん(73)兄弟。92(平成4)年5月のことだ。
以来18年、二人が語る川漁の今昔、長良川への思いに引かれて大橋家へ通った。97年から始めたテープ録音は100本以上、400時間超。これを3年がかりで整理し、写真を添えて「長良川漁師口伝」と題する大部の本にまとめた。近く人間社から出版される。
95年に河口堰(ぜき)ができる前の長良川は本州で唯一、本流に堰のない大河川で、鮎やサツキマスなどが自由に海と行き来した。昭和30年代には娯楽としての地びき網漁も度々行われ、鮎やシラハエ、ボラなどいろいろな魚がいっぱい捕れた。その後の公害で汚染魚に苦しみ、それがやっと収まったかと思うと、今度は河口堰建設―。
兄弟は、父親に漁を学んだころの豊かだった長良川や、海に行き交う魚たちの姿を生き生きと語った。陸から眺めているだけでは分からない、長良川のこの半世紀の真実と、川に寄せる思いの丈。
「豊かだった長良川の生き証人の話。自分が聞くだけでなく、社会に伝えなくては」と磯貝さんは決心した。
「昔と大きく変わっても、長良川は今も日本を代表する里川。その本当の姿をもっと見直してほしい。人影が絶えた沈黙の川にしてはならない」とも。
「あとがき」で「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」という、一世紀前に足尾鉱毒事件で闘い続けた田中正造翁の言を引き、「山紫水明のわが国が、まかり間違っても『山死水冥(めい)の国』とならないように…」と記す。最後は修さんの言葉で締めた。
「長良川は、なんとしてでも後世のために残しておいてやっとかんといかんでなあ」
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私が、この記事以上に何かを語るのは「不謹慎」だと思う。
また(このブログの読者は一般的に「ダム反対」だろうが)「河口堰反対運動」のような部分だけを取りだして読むのであれば、それも「不謹慎」だと思う。
最後の方で、2009年に大橋亮一さんが木曽川水系連絡導水路事業を批判したスピーチが採られているが、その部分だけを(自分たちにとって)都合良く使うのであれば、これも「不謹慎」だと思う。
20世紀後半を生きた「都市住民」は、ダム賛成とか反対とかを超えて、一度は謙虚に聴くべき話であると考える。
岐阜弁の語りを写しとった「口伝」は、岐阜弁が耳慣れない人には読みにくいかもしれない(渡しが大垣に移り住んではや33年半。自分では上手く話せないが、岐阜弁は、個別の語句の他にも言い回しやイントネーションは「耳によく聞こえる」)。
このブログの読者の皆さんが、お近くの公立図書館に購入を働きかけることを強くお願いしたい。
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