姫野雅義さんを悼む-まだ混乱しています- |
吉野川を流域住民の手に取り戻すための運動の先頭に立っておられた姫野雅義さんが、10月3日に、海部川にアユ釣りに出かけて遭難された。川を愛する仲間達の必死の捜索の結果、ご遺体が発見されたのは、7日の午前11時頃であった、という(この日のお昼過ぎにある人から情報を頂いた)。
ブログに載せようとして、私が姫野さんを写したJPG画像はないのだ、と改めて知った。
お会いしようと思えば会える人。そう思っていたから、わざわざお写真を撮ろうとは考えなかったのだ。
☆ 読売新聞記事
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「川と仲間愛したリーダー」 姫野さん遺体発見
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokushima/news/20101008-OYT8T00009.htm
遺体の発見現場周辺で、手を合わせて冥福を祈る姫野さんの知人(海陽町の海部川で)
川を愛し、仲間を愛したリーダーだった。海陽町の海部川で行方不明になっていた吉野川の「第十堰(ぜき)住民投票の会」の元代表世話人、姫野雅義さん(63)の遺体が7日、見つかった。仲間のためにアユ釣りに出かけ、帰らぬ人となった。無事を祈っていたゆかりの人々は、早すぎる死を惜しんだ。
◇現場◇
牟岐署や消防団などの約90人に加え、県内だけでなく東京や秋田からも、姫野さんの知人ら約50人が駆けつけ、捜索にあたった。
姫野さんらが設立した環境教育団体「川の学校」のスタッフで、京都精華大4年、加茂光さん(23)らが海陽町大井の海部川下流域で姫野さんの遺体を発見した。加茂さんは「生きていてほしいと願っていた。現実を目の前に突き付けられ、つらかった」と肩を落とした。
捜索現場に駆けつけたNPO法人「吉野川みんなの会」の元代表理事、豊岡和美さん(48)は「無理難題も言われたけど、最後は全部責任を引き受ける人だった」と大粒の涙を流した。
◇歩み◇
姫野さんは、建設省(当時)が水面下で進めていた可動堰計画に疑問を感じ、1993年に住民運動を始めた。5年後には、「第十堰住民投票の会」を発足させた。約10万人の署名を集め、2000年1月の住民投票では、反対票が9割を占めた。
可動堰化に含みをもたせる建設省に対し、計画を阻止しようと、姫野さんは04年の徳島市長選に立候補したが落選。その後、第十堰の可動堰化は改築も保存の議論もされない棚上げ状態となった。
今年3月、姫野さんと面会した前原国交相(当時)は「可動堰化は選択肢にない」と明言した。「目的を達成した」として5月には「吉野川みんなの会」を解散し、第十堰の保存に向けての活動を始めていた。
◇ゆかりの人々◇
「吉野川みんなの会」で代表理事を務めた徳島市国府町の農業、山下信良さん(59)は、行方不明となる前夜、「お堰」と呼んでいた同NPOの事務所で姫野さんらと食事をした。姫野さんは「もうすぐアユが禁漁になるから明日が最後のチャンス。あそこ(海部川)は捕れる。冷凍庫に入れとくけんな。みんな食べてだ」と笑っていたという。
山下さんは「釣り好きだから、『川を死なせたらいかん』との思いで運動をしてきたのだろう。最期が川というのがつらい」と言葉を詰まらせた。
今年3月に前原国交相を共に訪ねた成蹊大(東京都)の武田真一郎教授(51)は「決して感情的にならず、行動力を発揮できる人だった。みんなで遺志を引き継がねばならないが、同じような力は発揮できないかもしれない」と惜しんだ。
「もう一度、姫野さんの笑顔が見たい」。4日に徳島市内でコンサートを開いた歌手の加藤登紀子さん(66)も、突然の悲報にショックを受けていた。
姫野さんとの出会いは7年前。イベントへの出演を依頼するため、広島にいた加藤さんに会いに姫野さんが徳島から駆けつけた。「驚くほど行動力があった。笑顔を絶やさず、『きっと何か楽しいことがありそう』と自然と人が集まってきた」と振り返った。
加藤さんは「本当に川を愛した人だった。姫野さんは川に帰っていかれた、と思いたい」と悼んだ。
(2010年10月8日 読売新聞)
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☆毎日新聞記事
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可動堰反対リーダー死亡:
「大黒柱が…」「信念継ぐ」 仲間ら、悲報に衝撃 /徳島
http://mainichi.jp/area/tokushima/news/20101008ddlk36040498000c.html
◇懸命の捜索実らず
吉野川・第十堰(ぜき)の可動堰化計画を巡る市民運動で長年、リーダー格として活動し、3日に釣りに行ったまま行方不明となっていた姫野雅義さん(63)=石井町藍畑=が7日、海陽町の海部川で遺体で発見され、関係者に大きな衝撃が走った。住民運動の仲間や親交のあった人たちからは、運動をリードした人柄の良さをしのんだり、早過ぎる死を惜しむ声が相次いだ。【深尾昭寛、井上卓也、山本健太】
捜索は4日以降、警察や消防のほか、姫野さんが設立にかかわった「川の学校」のメンバーらも加わって続けられ、7日も早朝から開始されていた。
釣りが趣味だった姫野さんは、運動にかかわったこの20年弱、釣りをしておらず、最近になって再開したばかり。不明になる前日の2日夜も、仲間に「昨日はアユ釣りに」と笑顔で話したという。
今年5月に解散したNPO「吉野川みんなの会」の代表理事で、同町での捜索活動に加わった豊岡和美さん(48)は「再開した矢先にこんなことになるなんて……」と肩を落とした。同じく捜索に加わった徳島市北田宮2、会社員、石川富代さん(63)は悲しみの一方、「海まで行っているかもしれないと話していたので、ほっとした」とも話した。
悲報は、各方面に衝撃を与えた。木頭村(現那賀町)で同じように国のダム建設の計画に反対した元村長の藤田恵さん(71)は「全国の住民運動の大黒柱が倒れた気がする。まれな人をなくした」と悔しがった。
長く行動を共にし、活動をきっかけに99年に徳島市議になった村上稔さん(44)は「すべてがまだ信じられない。姫野さんの信念だった川に住民の声を反映させるという思いを引き継ぎたい」。住民投票条例の直接請求で姫野さんと一緒に請求代表者を務めたプランナーの住友達也さん(53)は「意志の強い人だった。やめようとか違う方向を考えようとした時も、引っ張ってくれた」と惜しんだ。
姫野さんは9、10両日に滋賀県栗東市などで開催される「水郷水都全国会議」の大会にも参加予定だった。大会の実行委員の小坂育子さん(62)=大津市=は「青天のへきれき。川の神さまが連れて行ったのでしょうか……」と悲しんだ。
◇吉野川愛し、運動の先頭に 住民投票実現に尽力
亡くなった姫野さんは石井町出身。約260年前に吉野川に造られた人工の堰・第十堰の近くで育った。90年代初め、可動堰が造られる計画を知り、「これ以上、川をいじられるのは耐えられない」と、仲間と計画を疑問視する勉強会を始めた。穏やかな人柄ながら、川に対する人一倍強い思い入れで、当時、計画に関する情報公開をしぶった旧建設省の追及の先頭に立った。
98年6月に同省の審議委員会(第三者委)が第十堰の可動堰化にゴーサインを出すと、反発する市民らとともに「川をどうするかは川にかかわる住民が決めるべきだ」と計画の賛否を徳島市民に問う住民投票の実現を模索。同年9月に発足した「第十堰住民投票の会」の代表世話人に就き、投票条例を直接請求するのに必要な10万人分の署名を集めた。
国の公共事業の是非を問う全国初の住民投票は00年1月23日に実施され、計画反対票が9割超を占めた投票結果は、その後の計画白紙化に大きく影響。運動の中心人物としてメディアに取り上げられることも多かった。
住民投票後も、可動堰によらない第十堰保存を目指すNPO「吉野川みんなの会」の代表理事などとして活動。04年4月の徳島市長選に立候補した(結果は落選)。今年3月に、前原誠司国交相(当時)が可動堰の中止を明言して以後、川の環境や文化の保護などを支援するための活動に軸足を移そうとしていた。【井上直樹】
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4日午前に、北海道の平取町内の二風谷ダムと平取ダム予定地を、現地の方に案内して頂いているさいちゅうに(移動中の車の中で)、関西の方からケイタイ電話で一報が入った。
「徳島の姫野さんが、3日に海部川にアユ釣りにいったまま行方不明。車だけ発見された。150人体制で捜索中とのこと」と。
ケイタイ電話という便利なものを憎らしく思った。この大変な情報を受けとっても、私には何もできない。
この夜はなかなか寝付けなかった。
・・・7日のご遺体発見の報があるまで、何もできないながら気持ちはあちこちを彷徨っていた。
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1995年からの一連の「ダム等審議委員会」の対象事業に、吉野川可動堰も入った。
吉野川可動堰の審議委員会は実に酷いやり方で、あっという間にGOサインを出した。
温厚な姫野さんは怒った、「もっと情報を、もっと透明性・公開性を。川のことは川の流域住民が考えて決めて行くものであるはずだ!」と。
「断固反対!」型運動とは趣の違うスタンスである。
この頃に「ダム審対象事業関係仲間」みたいな形で、私は知己を得た。
(私が招いたのではないが)、2000年には、姫野さんが大垣にいらしたこともあった。
「住民投票という民主主義を吉野川-徳島から学ぶ」という趣旨で。
私は、住民投票とか徳島市長選とか、行くべきときはたくさんあったのに、なかなか徳島には行けないでいた。
「川問題」に関わり始めてから、徳島を訪れたのは、2007年夏のの「川の全国シンポ」のときである。
徳島での「川の全国シンポ」http://www.daiju.ne.jp/kawashimpo/top.htm
ちょうど阿波踊りの時期と被っていた。
私の目的の30%くらいは「阿波踊りへの参加」であった。
「踊らにゃそんそん」。
「吉野川みんなの会」にも繋がる「吉野川連」に混ぜて頂いて、踊った。
上手いか下手かはともかく、「ノリ」においては、ひけをとらない。
姫野さんにも「良いノリですね。初めてとは思えない」と褒めて頂いた。そして、来ていた浴衣が、阿波の名産「しじら織り」であることを、姫野さんは分かって下さった(現地の人でも「しじら織り」を知らない人も多かった)。
結局、最後に直接お会いしたのは、2008年夏、「川の全国シンポⅡ」の相談会の第1回が大阪で行われたときだった(「淀川水系流域委員会」が終わって、その「流れ」で委員の一部とと傍聴者の一部が相談会を行った)。
この「川の全国シンポⅡ」は、11月2日に行われることになり、愛知県新城市で行われる水源連総会と設楽ダム反対全国集会の日程と重なってしまった。
愛知県も関係する「木曽川水系連絡導水路問題」を抱えているからには、設楽ダム建設中止の運動との連帯を優先せざるをえない。私はこの設楽ダム反対全国集会(※)の現地実行委の末端に加わることになり、「川の全国シンポⅡ」とは関われなかった。
(この2008年11月初めに、新城のホテルで、「導水路はいらない!愛知の会」の立ち上げのあらあらを決めたようなものである)
※ ”設楽ダムの建設を止め、みどりの流域圏づくりをめざす”全国集会&水源連総会
http://tokuyamad.exblog.jp/9592222/
http://tokuyamad.exblog.jp/9600951/
http://tokuyamad.exblog.jp/9601472/
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吉野川可動堰計画はようやく消えたようだ。
姫野さんは、「吉野川みんなの会」の解散を決意した。あれだけの力を発揮した「吉野川みんなの会」である。「解散することはないではないか。もっとやっていこう」という意見も強かった、と、あるとき姫野さんに電話したときに伺った。
そういう意見も強いだろうこと、そして姫野さんにはあえて「解散する」とした一種の期するものがあったことは窺えた。
9月末、姫野さんは、私のメールでの呼びかけをキャッチして、「「長良川河口堰で失われた生態を見る会」に申し込んで下さっていた。
長良川河口堰ヘドロ観察会Ⅱ-10月19日-
http://tokuyamad.exblog.jp/14682634/
吉野川可動堰計画とは、つまりは長良川河口堰と同じようなものを作って川を殺していくことに他ならない。姫野さんは、吉野川可動堰計画を消した今、「長良川河口堰の現状」を見て、新たな運動展開に何らかのヒントを得ようとされたのだと思う。
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「長良川河口堰運用15年」の今だから起きている地元の「ゲート開放」の声。
これを形にしていく運動は、単純な「反対運動」ではない、と感じている。だから長良川河口堰をくぐる船の上で、そして桑名の焼きハマグリを食べながら、住民の多数派を得ていく運動形成のヒントのいったんでも、姫野さんから学びたいと思っていた。
この期待が、こんなふうに消えるとは夢にも思わなかった・・・・。
姫野雅義さんは川に帰った・・・
姫野さんは、わざわざ「10月19日には長良川河口堰を見たい」と私たちに伝えることで、木曽川水系に関わる私たちに、改めて宿題を与えて、去られた。
姫野さんをリーダーとした「徳島での運動実践」に学んでいくこと。
それが重要な課題であることは、言葉としては「分かっている」
が、私の心はまだ波立ち、混乱はおさまっていない。
宿題を果たすための第一歩が何であるかを見つけるのに、もう少しかかりそうだ。
姫野雅義さんに「どうぞ安らかにお眠り下さい」というべきか「常に私たちとともに(現場に)いて下さい」というべきかも分からない。