北海道ダメ・ダム見学珍道中-5 |
- 大夕張ダム・夕張シューパロダム-
「夕張」といえば「赤字再建団体」で全国的に有名になってしまった感がある。
「リゾート産業による地域振興」でいろいろなものを作ったが(一時期は全国的な話題になって、多くの観光客も来たが)、結局は「ハコモノ赤字」を増大させて破綻した。
そもそも「リゾート産業による地域振興」を掲げるようになったのは、それまでの夕張の基幹産業だった「炭鉱」が閉鎖されたからである。
「夕張」という町の衰退-炭鉱閉鎖に至る過程では、1981年10月16日 の「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」に言及しないわけにはいかない。
つい2日前、10月13日(日本時間)-14日には、世界中が、チリの「奇跡」に沸いた。
8月5日に鉱山事故で閉じこめられた人々が十数日経って、奇跡的に地上と連絡ができ、国(国民)を挙げての救出活動によって、33人全員が地上に生還できた。
だが1981年の「北炭夕張新炭鉱」では、まるで反対のできごとがあった。
59名の人が坑内にいることが分かっていながら、早々に夕張川の水を坑内に流し込む「注水消火」という方法を採ることで、59名を確実に死亡させたのである。
「お命、頂戴します」
<フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』北炭夕張新炭鉱ガス突出事故>より。
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<経緯>
1981年10月16日午前0時、海面下810メートル、坑口より約3,000メートルの北部区域北第五盤下坑道のメタンガスセンサーに異常値が出ていることを地上の制御室が確認。ガスの突出事故の発生を確認し、直ちに会社側が組織した救護隊が救出作業を開始した。77人は自力で脱出することができたが、救護隊により34名は遺体で収容、ほか10名を坑内で死亡確認している。しかし、同日午後10時30分頃にガス爆発による坑内火災が発生、救護隊の10名も巻き込まれる二次災害となった。作業服の持つ静電気が原因で充満したガスに引火したと推測されている。
爆発後は坑内に大量の黒煙と熱が充満し、火災も収まる兆しが見えなかったことから密閉作業が行われた。密閉作業は坑口を塞ぐもので、坑内の避難器具(通称ビニールハウス)への空気供給を止めるものではなかったが、それでも火災が収まらなかったことから、会社側は注水による鎮火の検討に入った。 この時点で坑内には59名の安否不明者が取り残されており、注水は坑内にいるこれらの不明者を見殺しにする措置の為、安否不明者の家族の猛反発を受けた。中には林千明社長(当時)に「お前が入れ」と迫る者もいた。
注水の是非を巡る議論が白熱する中、生存者の有無を確認する為に捜索隊が坑内に入る。だが、爆発の衝撃で坑道の至る所で落盤が発生しており、救出活動を続行する事は危険と判断された。(捜索中、立ったまま死亡していた労働者の遺体も確認された。)
林千明社長は「お命を頂戴したい」と家族達に注水への同意を求め(林千明社長はその後自殺未遂事件を起こしている)、結局、10月22日に全員の家族の同意書を取り付け、翌10月23日、サイレンと共に59名の安否不明者がいる坑内に夕張川の水が注水された。 約4ヶ月の注水作業、その後の排水作業により遺体の収容作業が再開されたものの、遺体収容・確認作業は難航を極め、最後に残っていた遺体が収容されたのは事故から163日後の1982年3月28日のことであった。
最終的な死者は93人で、炭鉱事故としては、1963年の三井三池三川炭鉱炭じん爆発(福岡県大牟田市)の458人、1965年の三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町(現在の嘉麻市))ガス爆発事故の237人に次ぐ、戦後3番目の大惨事である。
・・・・・・・・・・・引用終わり・・・・・・・
大火災となっている坑内だが、多くの仲間がまだ坑内にいるからには何としても救出にいきたい、というヤマの男達の声で、労働組合は「注水による消火をもう少し待ってくれ」と会社側に強く求めた。
だが、北炭の経営陣を代表する人間は冷たくこういった…「お命、頂戴します」。
激しい炭坑火災だから、すでに坑内に生存者がいるとは思えない、早く消火しないと(掘り出すべき石炭が燃えてしまうこともあって)会社経営が危なくなる、というのだ。「炭鉱が、そして会社がなくなったら、元も子もないだろう」と。
(上記ウィキの記述と私の聞いた話には、少し齟齬がある。「お命頂戴」の決めゼリフは、「社長」が言ったのではない、あの大事故のさいちゅうにも(家族や労働組合の前には)社長は顔を見せず、社長より下の者しか出てこなかったのだから、と聞く。また、このセリフは家族対してだけに言ったのではなく、むしろ労働組合に対してだった、という話も聞く。当時の炭鉱労働組合は「炭住(炭鉱の社宅)の家族ぐるみ」の強い団結があったから、その時には、「家族に対して」と「労働組合に対して」には、特に大きな違いはなかったのかもしれない。)
◇ ◇
「会社を守る」との名目で59名もの「お命頂戴」しても、北炭は、翌年には新夕張炭鉱を閉山した。(そして最終的には他の炭鉱も閉山し、北炭は、1995年に事実上倒産する。)
また、1985年に三菱南大夕張炭鉱でガス爆発事故(死者62人)が起き、夕張の炭鉱は消えていくことになる。
◇ ◇
9月中に、北海道開発局札幌開発建設部に依頼して、パンフレット等を郵送して貰っていた。
下の写真は、広げると地図になるパンフレットの折りたたんだ表紙。
大夕張ダム管理所
http://www.sp.hkd.mlit.go.jp/outline/agri/yubari/index.html
夕張シューパロダム総合建設事業所
http://www.sp.hkd.mlit.go.jp/kasen/08isiken/02genba/33yubari/index.html
夕張シューパロダムの用地補償交渉はあっけないほど簡単だった、といわれている。
町に働く場所がなくなった、住み続ける意味を見いだせない、なら、いくばくかでも補償金を貰って出ていく… 。さらに、「この町にはつらい記憶がありすぎる」と呟いて出ていった人もいる、ときく。
ダムの目的などについての本来なされるべき議論が議論にもならず、大夕張ダムをすっぽりと沈める夕張シューパロダム計画は進んでいる。
◇ ◇
朝、突然にお邪魔し、かつ小雨がぱらついている天候にもかかわらず、大夕張ダム管理所の職員の方は、快く堤体を案内してくれた。
大夕張ダム管理所から歩いて、大夕張ダムを見た写真。
夕張シューパロダムの工事中の堤体があるから、大夕張ダム堤体の下流側を「遠望する」または「下から見る」ことはのはできない。
工事中の夕張シューパロダムの上から大夕張ダムを見れば、バッチリなのだろうが「部外者立入禁止の工事区域に入れてくれ」とまでは言えなかった(先を急いでいたこともあるし)。
大夕張ダム堤体上から見た建設工事中の夕張シューパロダム。
この発電所は水没する。
大夕張ダムの畔に立つ石碑には、北海道開発局長の個人名が大きく刻まれている。
そんなの「あり」か?
(徳山ダムでも似たようなことがあるところを見ると、ダム事業者の常識としては「あり」なのだろう)
大夕張ダム管理所付近から見る三弦橋(元森林鉄道の鉄橋)。
夕張シューパロダムが完成すると、この橋も水没してしまう。
◇ ◇
「夕張シューパロダム反対」という地元の声を、私は聞いていない(2002年くらいから、私なりの情報網を駆使した。が他のダムでは大抵は「反対だ」という政党の人まで「事実、洪水が起きたことがあるから反対できない」という … )
全くもって奇妙奇天烈・意味不明としか言いようがない夕張シューパロダムは、「反対」の声もなく粛々と工事が進んでいる。
こうした状況が生まれたのは、国土交通省北海道開発局の所為だけか?
「便利さを求める」「カネという意味での豊かさを追い求める」。
ある意味では、いまだにこれが「社会的コンセンサス」である。
「カネがない」山里や町に、ダムや原発や基地がやってくる。
そうさせているのは、「カネがある」側に暮らす者達の論理・生活様式なのではないだろうか?
<参照>
山里にダムがくる (山と渓谷社)
http://www.yamakei.co.jp/products/detail.php?id=310110
菅 聖子・文 大西 暢夫・写真
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大夕張ダム堤体を背景にした私。