姫野雅義さんを悼む-11月3日 お別れ会 1- |
11月3日、「お別れ会」が徳島であった。関西の方々に混ぜて頂いて参加(参列?)させて頂いた。
新聞記事にもあるように、多くの人が集まった。
多分、徳島の政財界の大物の「県民葬」でもこれだけは集まらないのではないか。
本当に惜しまれて逝ってしまわれた … 残念とか無念とか、言うのも詮無い。
この世に残された者達は、姫野雅義さんが遺したメッセージを探りながら、実現へと尽くすのが「供養」なのだろう。
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☆ 朝日新聞徳島版 2010年11月04日
「川の未来 引き継ぐ」 姫野さんに別れ
http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000001011040002
【写真】=姫野さんの遺影の前で別れを告げる参列者=徳島市川内町
吉野川第十堰(ぜき)を守る活動をリードし、先月、釣りに出かけた海部川で亡くなった姫野雅義さん(63)のお別れ会が3日、徳島市の斎場で営まれ、約800人が参列した。ダムに頼らない治水を国が模索し始めた矢先の死に、皆やりきれない思いで向き合った。(水沢健一)
お別れ会は、「一つの区切りをつけたい」と家族が主催した。10年前の徳島市の住民投票運動でマイクを握る遺影を前に、同級生や川の活動の仲間らが言葉を送った。
美波町在住のカヌーイスト野田知佑さんは「姫野さんの運動は決して『反対』と言わず、『おかしいと思いませんか。考えてみましょう』と問いかける。それで、政治嫌いの人もついてきた。あの住民投票があったから、私は徳島に住むようになった」と振り返った。
住民投票の翌年、「川ガキ」を育てようと姫野さんや野田さんらが始めた「川の学校」からは300人が巣立った。川の学校1期生で新聞記者の新居拓也さん(24)は、海部川での捜索にも加わった。「川で姫野さんを捜しているのが非現実的で、夢を見ているようだった。姫野さんが思い描いていた、魚がいっぱいいて、文化が引き継がれていく川を、僕たちが実現できると思う」と誓った。
徳島市の住民投票を取材したジャーナリストの今井一さんは「市民の力を信じ切ることが大切だと教えてくれた。『これから第十堰をどうするか、みんなで考えてほしい』と姫野さんは言いたがっていると思う」と語った。
川の活動を通じて親交のあった大学の研究者や、住民投票を取材した報道関係者も県外から多数参列した。国土交通省を辞め、一住民として淀川水系流域委員長を務めた宮本博司さんは献花の後、「姫野さんは、前原誠司国交相(当時)が第十堰を残すよう指示したのに、河川局が『少し時間がほしい』と答えたことを気にかけていた。『塩漬け』にするつもりなのかと。大臣発言を具体化する道筋をつけられなかったことが、今でも心残りだと思う」と話した。
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徳島新聞の記事を徳島の方が送って下さった。新聞を伸ばしきれていない、そのことに、この方の姫野さんへの思いを感じさせられる。
10月29日の日本経済新聞「追想録」の3名の真ん中に姫野さんが載った。往年の大女優・池内淳子さんを押しのけて(?)の真ん中である。どんな立場の人からも愛され惜しまれた姫野さんのお人柄(包容力と決断力を兼ね備えた)が、こういうところにも表れている。
10.10.29日本経済新聞姫野さん追悼記事(PDFファイル)
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あまりにも一杯で2Fの会場には入りきれない。1Fにもたくさんの人がモニターで、会場内の一連のセレモニーに見いった。
多くの「川の関係者」に出会った。
姫野さんという存在がもつ「広がり」が、多くの人を呼び寄せ、改めて「川」への思いを無言の中でも誓いあうことになった。
祭壇の花は「川」の流れを表していた。
川の流れのようにいつまでも……
続く
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吉野川・沈下橋