姫野雅義さんを悼む - 追記 - |
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姫野雅義さんを悼む-大垣にいらしたときのこと-[2010-10-12]
http://tokuyamad.exblog.jp/14774518/
に、2000年(第6回)西濃憲法集会のチラシなどを加えた。
この集会を企画した人達の心の中に、吉野川と第十堰の佇まい、そして姫野雅義さんの言葉が-私が思っていた以上に-、深く刻まれていることを知った。
◇ ◇
徳島の方から以下のようなメールを頂いた。
姫野さんの身近で活動してきた人ならではの、単に「がっかりした」「悲しい」を超えた、一種の透徹した哀しみと決意を感じる。
ご本人の了解を得て、ここに転載する。
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3日は徳島まで来ていただいてありがとうございました。
おきれいな着物姿ですぐに式場で気づきましたが、ご挨拶できずにいました。
みどりのMLに流してくださって、3回シリーズも読ませていただきました。
(略))
ブログやMLに書いていただいてありがとうございました。
最後の夕焼けから後の映像と文章に思わず涙してしました・・・。
姫野さんが見つかったときの私の日記です。
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たくさんご心配をおかけしました。
報道のとおり、昨日午前11時ごろ、多くの祈りもむなしく、やはり遺体で発見されました。
私は見つけてくれた川の学校スタッフの若い光くんから第1報を受け、ほぼ間違いないだろうということを役場の下の階の警察と消防に伝える、という悲しい役割でした。
月曜の午前中に行方不明の知らせがみんなに伝えられ、その日、若い人たちを中心に実行委員会が組まれた
(姫野さんの影響で育っている若者たちです)加藤登紀子さんのコンサート、そのコンサートを動揺と悲しみをこらえて最後までやり遂げた仲間たちも翌日からは毎日たくさん捜索に加わってくれました。
川ガキ養成講座で立派に成長した若者たちがリーダーの指示の下、辛さや疲れを顔に見せずに連日遠い海部川まで通いつめ、真剣な表情で早朝からから夕方まで、カヌーを出して、もぐって、歩いて事故のないように細心の注意を払いながら姫野さんが釣っていた場所から下流に向かって、丁寧に、祈りながら探し続けました。
彼らに比べて、とても捜索の効率の悪い私たち陸上組も、あちこちに草の切り傷を作りながら、脚を棒にして捜しました。
私は2日目から本部に詰める役にかわり、体の冷え切った子どもたちのために小さな湯沸しポットで一日中お湯を沸かしていました。
料理の得意なTさんは、遠い海部川まで、午前3時起きで、体の温まる豚汁をたくさん作ってきてくれました。
徳島でじっとしていられない方々も次から次に遠い現場に来てくれて「少しでも」と子どもさんの保育園のお迎えに間に合うようにまた2時間近くかけて帰っていかれたり。
地元の消防団の方々も、家業をほったらかしにして小さな町からほとんどの主な働き手を捜索にお借りしていた状態でした。
姫野さん、
このみんなの必死のすがたを、
そして、あなたが育てた子どもたちの姿を見てください、
一人ひとりが強い意志を持ったチームの一員として、
立派な大人として、最高の役割を果たしています、
だからどうか還ってきて!
状況はとても絶望的で、あきらめているのだけれど、
間違いであってほしい、
どこからか「ごめん、ごめん」と姫野さんが
笑って還って来るかもしれない、という思いを
最後まで捨てきれずにいましたが・・・。
人間誰しも、必ず最後に死ぬのだから、
大好きな川で、しかもダムのない清流で、
ここでよかったのだ、と思おうとしています。
姫野さんが実践を通して教えてくれた「市民の力で社会を変える!」という思い、経験を大切にこれからもがんばらねばならないのでしょう。
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