2010年12月7-8日 長良川「治水」調査行-2 |
~ 1976年長良川右岸決壊現場 ~
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変なダム話が起きあがってきた一方で、長良川河口堰ゲート開放というこのとが(単なる「夢」ではなく)具体の課題となってきている。
高度成長期が終焉し、水需要が低迷する中長良川河口堰は「洪水対策のために必要だ論」で進められた。①長良川下流部の流下能力の増大ために、河道浚渫が必要 → ②河道浚渫によって15㎞地点付近の河床突起部(マウンド)を除去するので、そこで止められていた塩水がより上流まで遡上する → ③塩水遡上の拡大によって堤内地に塩害が発生する → ④塩害防止のために潮止めとして河口堰が必要) というものである。
この一つ一ついついて有力な異論・反論があるが、ときの事業者(国・水公団)はきちんとした議論の場を設定しなかった。
1976年9月の長良川右岸破堤による被害の大きさが、冷静な議論より感覚的な「洪水対策になるなら何でもやってほしい」という気分を醸成した面も否めない。
「できるだけダムに頼らない治水」議論の中で、「堤防強化」が喫緊の課題となっている。
今、あらためて1976年9月の安八切れ(長良川右岸破堤)のことを真剣に考える機会が巡ってきたといえるだろう。
どの川にもその川の特性があり、人が川にどう付き合ってきたかにも歴史的特性がある。その地域にとって治水の最良な方法、最優先な課題は、その河川・その地域によって異なります。
霞が関ですべてを決めるのは間違いだ。一律に全国の川に当てはめるのは乱暴過ぎる。同時に利権政治から脱しない地域を牛耳る議員や過去と目先に拘泥する保身的役人やヘンな功名心に駆られた学者に勝手に引きまわされてはたまらない。
地域特性に合わせた治水。具体の川、具体の場所があって、そこに生きる生き物がいて、そして水と共に暮らす人間がいて、その地域の伝承をも大事にして現在に活かす…。
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決壊から35年。このツーショットには「歴史的意味がある」といえる。
当時、新進気鋭の研究者・今本博健さん、弁護士なりたての在間正史さん。
別の立場でこの場所に足を運んだ。
当時「教授になりたて」の今本さんは、ここに調査にいらしたそうである-多分行政側から依頼された調査であろう。
1976年に弁護士登録をした在間正史弁護士。当時籍をおいた事務所が安八水害訴訟を受任したことから弁護団に加わった。司法修習生のときから「川吠え」を発行していた「長良川河口堰ぶ反対する市民の会」に加わっていたそうだから、「イソ弁としてボス弁の指示に従った」という以上に積極的だっただろう。実際に相当にのめり込んだらしい・・・「河川管理者より川に詳しい弁護士」の始まりである。
このお二人が、1976年の破堤現場に並んで立っている。
私の「川」との縁はまだ15年くらいで短いが、「学問って何?」「弱者の側に寄り添うってどういうこと?」と問い続けた(あがき続けたというべきか)者としては、非常に感慨深い。単純二分法で「正義」「不正義」は分けられない。
事実に対して、誠実に向き合い続けたかどうかが、問われるのだろうと思う。
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破堤現場で、在間正史弁護士(安八水害訴訟弁護団)が、当時の貴重な写真をもってきて下さった。破堤前の航空写真も。この航空写真をアップできないのは残念。
決壊直後(数日以内)、仮復旧の工事が始まったばかりの現場。破堤した堤防の断面を窺うことができる。
在間正史弁護士は、「技術と人間」1984年11月号のご自分の論文のコピーをもってきて下さった。
「長良川墨俣水害訴訟判決の忘れたもの」(PDF版)
訴訟の背景にも触れられているし、破堤原因などの解説もあって現時点でも新鮮だ。
在間正史弁護士は「今もう一度読み直してみて、基本的な治水に関する基本的な認識の骨格はこの頃にできていたのだな、と思う」とおっしゃっている。
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そもそもこの「9・12豪雨災害」「安八・墨俣水害訴訟」のことは、すでに「聞いたこともない」人も多いと思う。
1976年のHWL以下での破堤(大きな河川での破堤)があった。
この破堤で大被害を受けた安八郡安八町住民と墨俣町住民が、河川管理の瑕疵を巡って訴訟を起こした。
安八訴訟の1審判決(1982年)は住民(被災者)勝訴、しかし後の墨俣訴訟1審判決(1984年5月)は敗訴。
同じ原因の水害で判断が分かれたのは、大東水害訴訟最高裁判決(1984年1月)の所為だ、と言われている。
最終的には両訴訟ともに住民(被災者)敗訴で確定した。
「大東水害訴訟最高裁判決」が、水戸黄門の印籠になってしまった。「河川管理の特殊性」というフレーズで、裁判官の思考は停止する。以後ほとんどの水害訴訟は住民(被災者)敗訴となってしまっている。
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1976年決壊から30年目。岐阜新聞は特集を組んだ。
ありがたいことに今でもWebで閲覧できる。
岐阜新聞特集 2006年 森と水の県土へ
第3部「治水の今」
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/3/
甚大な被害を出した「9・12豪雨災害」から今年で30年。第3部「治水の今」では、未曾有の水害の記憶をたどるとともに、水と闘う県内各地の現場、防災に取り組む人々を追った。
★安八水害から30年 決壊…消せない記憶 2006年 9月10日(日)
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/3/kaiki3_1.shtml
★安八水害訴訟 国を堤防強化へ導く 2006年 9月12日(火)
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/3/kaiki3_2.shtml
★河川整備の方針 問われる水との共生 2006年 9月14日(木)
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/3/kaiki3_3.shtml
★見直される輪中 地域で培う水防意識 2006年 9月15日(金)
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/3/kaiki3_4.shtml
★大垣の洗堰問題 安心求めているだけ 2006年 9月17日(日)
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/3/kaiki3_5.shtml
★宮川流域の水害 常識覆す上流域被災 2006年 9月18日(月)
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/3/index.shtml
★恵南豪雨 山の荒廃が流木生む 2006年 9月19日(火)
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/3/kaiki3_7.shtml
★河川伝統技術 環境守る先人の知 2006年 9月20日(水)
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/3/kaiki3_8.shtml
★水防団員の高齢化 水害経験の継承課題 2006年 9月22日(金)
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/3/kaiki3_9.shtml
★自主防災 地域で助け合う心を 2006年 9月23日(土)
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/3/kaiki3_10.shtml
この2006年 森と水の県土への第4部「明日への視点」になぜか私も・・・
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/4/
☆ダムへの反旗(下) 近藤ゆり子さん 2006年12月 5日(火)
http://www.gifu-np.co.jp/kikaku/2006/kaiki/4/kaiki4_2.shtml
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福束輪中は、道路を通すために一部切り開かれていた。
長良川右岸堤が決壊したとき、下流側の福束輪中は、放っておけばどんどん浸水する … 福束輪中の水防団は総出で土嚢を積んで水を防いだという(被災当時の航空では、輪中堤でしっかり守られていることがわかる)。
その輪中堤の上(十連坊)で在間正弁護士の話を聞く。
十連坊堤の写真を拝借。
改めて締め切り可能にした輪中開削部に行く。
輪中堤の上の小屋が水防倉庫で、ここにこの道路を締め切って連続的輪中堤にする「道具」が入っている。
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「近代技術」は、大規模な自然改変を可能とした。それが「人類の夢」を実現した、という側面を全否定はできない。
しかし「近代技術」をあまりにも信奉したために、人知を尽くした伝統的な知恵と工夫をいとも簡単に捨て去ってしまったという負の部分も否めないのではないか?
豊富で貴重な縄文遺跡のある「徳の山」を意味不明のダム=徳山ダムの水底に沈めてしまった。そして千三百年も伝統をもつ”鵜飼い”が象徴する長良川-豊富な川の幸をもたらしたその川の河口に、川を海と分断する巨大な人口構造物=長良川河口堰を作ってしまった。
そんなことをまだ続けるのか?
口先にとどまらない「見直し」「問い直し」を、歴史が求めている。
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破堤現場の堤防上から、「濃尾平野の母なる山・御岳」がくっきり見えた(カメラの性能ゆえにこれしか撮れなかったが)。