2010年12月7-8日 長良川「治水」調査行-4 |
~ 関市南部・今川あたりにて ~
12月7日の「上流へ」のときと翌日の「下流へ」のときの両方で、今川左岸に行った。
ギンブナの会の須田さんのプレゼン(説明)に今本先生が大いに心を動かされたからでもある。

上は、須田さんが大切に持ってきて見せて下さった後藤宮子先生の今川での30年間の調査記録「第1冊 原本」。当時の青インクのガリ版刷りで、毎日記入するための表が作ってあり、そこに鉛筆で日々の(朝夕2回のときも)魚類の分類と数が記入されている。最近、表紙交換と綴じ直しをしたようだ。それでも中の記録が汚れたりしたら大変。あまりにも貴重なので中は数ページだけ見せて頂いて、外形の写真だけ撮らせて頂いた。

見て歩いた場所を、長良川市民学習会の武藤仁さんが地図に落としてくれた(感謝!)
直接ブログに画像でアップしても見えないので、
PDFファイル版
http://www.tokuyamadam-chushi.net/sonota4/20101207seki.pdf をば。
是非、これを開いて、どんな場所を見て回ったかをご覧あれ。

この今川あたりの河川改修の概念図としては、岐阜県のパンフから頂く(4P)を見てみよう。
長良川床上浸水対策特別事業 平成16年10月20日台風23号豪雨災害
http://www.pref.gifu.lg.jp/kendo/michi-kawa-sabo/kasen/anshin/kasen-kaisyu/yukaue.data/yukauepanf.pdf

この床上浸水対策特別事業と「涸れた今川」(弊ブログ11月に関連記事多数)、そして内ヶ谷ダムの「治水効果」問題に繋がる。
私の見方からすれば「内ヶ谷ダムはここの浸水対策に役立たない(言うも詮無いが、保戸島用水の水を確保することにも全く役立たない)。」「『涸れた今川』に水を戻すこと(低水管理)は、同時に、分派することによる洪水ピーク低減(高水管理)にもなる。」「ゆえに河川管理者としての優先順位は自ずから決まる。」
関市南部の千疋あたりから下流側、長良川今川とが分派するあたりは、昔から浸水しやすい場所であったらしい。「ある時の大水で今川ができた」「今川が本流であったこともある」という話も聞くが(きちんとした史料に当たっていないが)多分、事実であろう。
川が渓谷部から平地に出たところでは堆積が起こる。それが「肥沃な農地」を生み出したのであり、話を広げれば「四大河川文明」の所以でもある。
大水と付き合いながら(命を落とさないように気をつけながら)、土地利用の知恵を蓄積し、川の恩恵を暮らしに役立ててきた。このあたりの川辺(堤防)にはそこここに小さなお社があった。多分「水神様」であろう。自然という神を尊び、祈りながら、知恵を絞って、先人は日々の、毎年の暮らしを紡いできた・・・そんなことは、私が縷々述べるまでもない当たり前のことだ。
だが、「下流都市に住み、高等教育を受けて社会的地位もある人々」においては「当たり前」ではなくなっていた。「近代科学と近代技術で自然をコントロールできる」かのごとき錯覚をもってしまった。その錯覚を体現している人間ほど力をもった時代・・・そこが”近代”のオソロシイ側面だと思う。(11月25日に開催された「第1回 内ヶ谷ダム 検討の場」で「自分は国土交通省から出向してきた」と自慢げに話した岐阜市副市長(※)は、「錯覚人間」の典型か?)
※ 岐阜市役所の前の長良川水位の掲示板を見ると「大変なことだ」と感じるのだそうだ。長良橋周辺の堤外地民地での町づくりは「元気」である(「自慢できる岐阜市の元気」は他にあるのか?)。この御仁の感覚だと、巨大な陸閘の川側-堤外地-で町づくりなど「あってはならない」ことになってしまわないか? それぞれの土地にはそれぞれの暮らしの歴史があることを知らないで霞が関の考えを押しつけるのが「中央高級官僚の役割」なわけ?(明治憲法下の「内務省」「官選知事」の思考法が残っているらしい)
岐阜市の副市長になってから、もう半年以上も経っているのだから、岐阜という町と長良川の関係は学習しているべきだ。この手の御仁に岐阜市の一般職員平均より遙かに高い給料を払っている岐阜市民が可哀想すぎる。
◇ ◇
今川はこの日も涸れていた。
今川橋下で。
橋脚の上流側は、橋脚の幅のおよそ1.2倍くらい洗掘される、と聞いた-なるほど。

長良川はこの日、美濃橋付近(およそ75km)で45m3/s、芥見付近(およそ60km)で80m3/s流れていると聞いた(速報値)。
千疋大橋付近だとこの間の流量ということになる。勝手な直感で、60m3/sくらいだ、と言ってしまおう。(ある意味、誰も確定できない)
壊れた導流堤そばで。

今川に分派するはずの場所を長良川右岸から。

千疋大橋上流の登り落ち漁仕掛け。この日は流量が多すぎて仕掛けとして機能していない。(『涸れた今川』が長良川の流量が少ないかどうかだけの問題でないことは、こんなことからも明らか)
