2010年12月7-8日 長良川「治水」調査行-5 |
~ その他モロモロ ~
「頭がオーバーフロー状態」のまま、年も押し詰まってしまいました。
あんまりいろいろなことがありすぎて、12月7-8日の長良川「治水」調査行も、遠い昔のことのように思えてきてしまいました。
何とか年が変わらないうちに・・・。
◇ ◇
今本先生は、長良橋の両側にある巨大陸閘(大宮陸閘・長良陸閘)に大きく興味をもたれたようです。

いつだったか・・・夫が生きていた頃ですから20年近く前かもしれません。今となっては訓練だったのか、それとも長良川の水位が上がったから閉めることにしたのか、記憶は定かではありません。
長良橋の両側に煌々と照明が照らされ、電車通りでもあった長良橋通りをバーンと閘門を閉めきって通行止めにしているところに出くわしました(長良陸閘側)。
私は相当にびっくりしました。「こんな大通りを通行止めにするって大変!?! それに、ここを閉めてしまったら旅館などが川の側に取り残されてしまうじゃない!」
夫は平然と「ここはそういうふうになっている。旅館街はもともと鵜飼いを観る船が軒先に着くようにできてきたのだから、ここが閉められれば浸水すつことは承知の上」と。
金華山から眺める長良川はきれい、とか、長良橋の下は水浴場なんだぁ、とか、「岐阜という町と長良川のあり方」には、いわば観光客的な面白みは感じていましたが、「巨大陸閘があって堤外地民地に人が暮らしているというリアリティ」はなかなか理解できませんでした。
・・・・早い話、都市の中を流れる河川といえば”隅田川”しか思い浮かばなかった、ということです。
私は岐阜の地名や土地勘がないので、話についていけないのですが「ここはもともと長良古々川の河川敷だから」とか「前は長良古々が本川だったから、水は主にそっちに流れた」とかと地元の人は話します。聞くと、県庁所在地のような町でも、河道を現在の形に固定化したのはそんなに遠い昔ではないのだ、と知ります。
どんな洪水であろうが、ある時に固定化した河道から一滴の水もあふれさせてはならない、などというのは「土台無理な、ありえない話」であることが、実感されます。

そしたら、「そのときに撮った写真です」というアルバムを見せて下さいました。玄関から浸水してくる状況を実に冷静沈着に写真に撮ってあるのです。フロント階フロアは浸水したけど、一定以上の水は背後に流れ出るようになっているのだそうな。

巨大陸閘によって明確に堤外地とわかる地区。
このあたりには、いたるところに小陸閘があります。
HWLのちょい上までの高さ。これはこれで「役に立つ」はずです。
かつての最新河川技術。「岐阜特種堤」。

◇ ◇

「水路式(流れ込み式)」の長良川水力発電所。
ウィキペディアから引用。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆ 歴史 [編集]
旧岩村藩の藩士・小林重正は、明治28年(1895年)に開かれた第4回勧業博覧会視察で京都を訪れた際、琵琶湖疏水を利用した(蹴上発電所を見学)水力発電事業を見て長良川での水力発電を考え付く。岐阜に戻った重正は自費を投じて長良川流域を調査した。その結果、現在地の立花が発電所の建設に適しているとした。
重正は専門の技術者に依頼して設計・測量を行い、予算は当時の貨幣価値で約19万円、発電出力を3,000kwと計画。明治29年(1896年)有志8人で岐阜水力電気を設立し、明治30年(1897年)には官庁の許可も得た。しかし、日清戦争後の不況で断念。明治37 年(1904年) 2月に許可取り消し、水利権は自然消滅となった。
日露戦争後の好景気を迎えた明治39年(1906年)、名古屋電燈が名古屋への電力供給を目的に大規模な水力発電を計画していた。発電所の設計や測量に携わった野口遵(シーメンス電気会社の技師)が計画を名古屋電燈に持ち込み、事業は名古屋電燈に受け継がれ明治41年(1908年)に着工となった。明治43年(1910年)に完成し同年に運用開始した。(運開当時は日本で2番目の規模を誇っていた。)
☆レンガ積みの正門壁に貼られた登録プレート。

運用開始から昭和55年までドイツ製(フォイト社製)水車(最大出力2330kw)とドイツ製(シーメンス社製)発電機(最大出力2500kW)3基で発電を行なっていたが、昭和56年に機器の老朽化に伴いL字型に建てられていた旧発電所建屋の一部を取り壊し、新しく発電所建屋が建設され発電機及び水車が取り替えられた。今でも旧発電所建屋に取り壊された建屋部分の跡が残っている。建設された建屋は景観を損なわないように配慮され、旧建屋と同様に外壁はレンガ調の造りになっている。取り替えられた古い発電機が発電所横に展示保存されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



長良川に「いきなり」現れる取り入れ口(左写真)。ここにはゴミがいっぱい。大丈夫かな?
そして延々と、開削された水路を穿たれた隧道を通ってずっと下流まで水は引かれます・・・距離があれば落差も出る。
「ここから管の中へと水を落とす」場所が右の写真。落下した水の位置エネルギーが電気エネルギーへと変換される、というわけ。
この日は約22.5m3/Sの水で発電していたそうです。
この22.5m3/Sの水が本川から収奪されることには、当然のことながら、それまで長良川の豊富な水を利用していた人々からの抵抗運動があったそうです。
流域住民のそれまでの暮らしの営みを変えながら(壊しながら)、日本の「近代化」「豊かさ」が推し進められてきました。
東京の山手線を走らせるために信濃川をカラカラにしてしまった水力発電(「帝都」の便利さのためなら日本一も河川を干上がらせることも厭わない、スゴイ発想)。その先鞭ともいえます。
同時に、「適切な場所に適切な量の水を利用する」ことが可能なら、ダムを作らずに水力発電を行う、という意味で今後に生かせる技術なのかもしれません。
いろいろなことを考えさせられるなぁ・・・
◇ ◇
まだまだ知らないことだらけの長良川。
川は、人の暮らしと歴史を映し出して、奥深い。
