”藤橋村騒動”とシンポジウム「住民自治と地域振興-山村の自立を考える-」 |
~1998年のはじめ~
整理されていない資料の山を一部発掘していたら、1997年の”藤橋村騒動”の後の1998年2月14日のシンポジウムのチラシが出てきた。
木頭村・御嵩町 … 。過去のことのようで「過去」でもない。

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1987年、徳山村は廃村となり、隣の藤橋村に編入合併された。徳山ダムの起業地は藤橋村となった(※) … 経緯からして「徳山ダム建設事業」は藤橋村住民にとって「与件」であって、どういう意味にしろ住民が選択したというわけでもない。
※ その後「平成の大合併」で藤橋村は下流の揖斐川町に編入合併された。「本格運用」となった徳山ダムの固定資産税は揖斐川町に入っている。
旧徳山村民が藤橋村に多く移住したわけでもない。ほとんどの徳山村民は、シモに移転すると同時に住民票も移した。「徳山ダム建設事業」が人口400人そこそこ、集落も事実上1つしかない(東横山・西横山というわけ方で2つであるとも言えるが)村にやってきてしまったのだ。
旧徳山村の人達の声は藤橋村長選挙にも、藤橋村議選挙にもほとんど反映されていなかった。このことはかなり特種である。
だが、大型公共事業、その中でも象徴的なダムを巡る起業地での”騒動”としては、今でもある種の普遍性をもっている。
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その当時、「技術と人間」に連載を載せて貰っていた。
1998年4月号に
連載 徳山ダム問題を考える(2)
揺れ動く”地元”からの報告-藤橋村の歴史と現在 (PDFファイル版)
を載せている。
この稿の終わりのほうで、以下のように表題のシンポジウムに言及した。
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「ダムで栄えた村はない」ことを、今回の「騒動」ははっきりと示した。だが水源地山村がダムを受容するのは、山村の人間が愚かだからではない。「公共事業にすがる以外にない」「国や県に逆らえない」と考えざるをえないような「現実」、経済的に自立できない政治システムが確固として存在するからだ。このことに関連し、2月14日、私たちは、徳島県木頭村の田村好村議(本誌97年10月号、飯島孝論文「ダム建設休止、木頭村の闘い」参照)と岐阜県御嵩町で産廃住民投票を担った町民の方をお招きし、愛知大学の渡辺正教授をコーディネーターとして「シンポジウム 住民自治と地域振興 山村の自立を考える」を開催した。藤橋村からも10人の参加者を得て、多くの収穫があったと考える。
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「収穫」は本当にあったのか? 私の中ではまだ結論は出ていない。
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当時の村長・島中氏は、私に電話で「ダムなんかどっちでも良い。金がほしい。金さえかければ人は来る、地域は潤う。私は信念をもっている。」と明言した。同様なことを口にする起業地の首長は各地にいる。
これに対して、下流都市住民の論理での「無駄だ」論だけをぶつけても、不毛な対立にしかならないだろう。では何を?
未だに「分からない」。
1997年から1998年にかけての藤橋村への何種類かのポスティング用チラシの一つに、こんなものも入れた。
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下流の私から上流のあなたへ
山村は山村で素晴らしい、豊かな森に抱かれて
農村は農村で素晴らしい、豊かな田畑を育んで
川の故郷・藤橋はそのままで美しい、優しい人が暮らすから
こんな当たり前のことを
いったいいつから忘れてしまっていたのだろう
ブルドーザーがお金を生み出し
ダンプカーがお金を運び
コンクリートミキサーがお金を膨らませるなんて
こんなおかしなことを
いったいいつから信じてしまったのだろう
徳山ダムが来るなら、巨大ダムが来るなら
故郷は豊かに潤うだなんて
徳山ダムが来ないなら、巨大ダムが来ないなら
故郷は貧しさに沈むだなんて
こんな醜い言いぐさを
いったいいつから許してしまったのだろう
山村は山村で素晴らしい、豊かな森があるなら
農村は農村で素晴らしい、豊かな田畑があるなら
藤橋はそのままで美しい、優しい人が暮らすなら
こんな当たり前のことを早く取り戻そう
上流のあなたと下流の私と
山のあなたと町の私と
みんなが手をとりあって
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同時期に「一般バージョン(ダム・基地・原発)」「御嵩バージョン」「辺野古バージョン」も作っていたことが分かった。こんな感傷的な何かでモノが進むほど甘くはない。
環境面でも防災面でも、食の安全という側面でも、「山間僻地」と言われてきた地域をどう蘇らせていくのか。その「大きなビジョン」が問われている。が、誰も答えを出せていない。
が、今「都市化」に倦んだ若者が、あらたに山村や漁村や農村に回帰する現象も生まれている。確かに未来への萌芽はあるのだ …
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1998年2月。
藤橋村「藤橋城」

徳山ダム堤体予定地そばで田村好さんとMさん。
後方の「電柱」にあたるところが堤体中央部。ここは切り立つ両岸が迫っていて「猿が対岸に飛ぶ」とも言われた場所である。
