1976年 月刊 市政研 「無条件降伏の悲劇」/”反進歩主義”のレッテル |
過日、1976年10月5日付けの「月刊 市政研」の記事のコピーを受け取った。記事の筆者からである。
PDFファイル
http://www.tokuyamadam-chushi.net/sonota4/19761005shiseiken.pdf
他の方に伺ったところ、この「月刊 市政研」というのは、第1次安保の帰郷運動としてはじまった政治サークル「豊田市政研究会」の機関誌だったそうだ。この記事の筆者が初代の会長だそうだ。
「第1次安保の帰郷運動」
そういうものがあると何となく耳にした覚ええがある、高校生の頃か? すでに「ほんの一部の人間しか知らない歴史に埋没しつつある用語」になっているのかもしれない。
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「無条件降伏」「無気力」という言葉は、なかなか強烈である。この言葉が、外部の目として-「”反進歩主義”のレッテルを貼られても」という『覚悟』をもった外部の目として-、適切なものかどうか、私には判断しがたい。
徳山村で、いわゆる「徳山ダム反対運動」はなかった。1957年11月、徳山村議会は徳山ダム反対決議をしている。が、「調査と着工は別」という理屈を受容してしまった、結局はダム建設を受け入れたも同然だ、と外部の人間の目に映っていたのもまた確かなようだ。1971年12月の「実施調査受け入れ」は、建設省の確認書を取り付ける、「無条件降伏」ではなかったはずだが、その後、「村民は一致団結して有利な条件闘争を遂行した」とは参らなかったのも、また事実であった。
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大牧富士夫著「徳山ダム離村記」 (1991年)
1977年から1982年まで、長良川河口ぜきに反対する市民の会の機関誌「川吠え」に連載された徳山村からのレポートが中心となっている。
「国策としてのダム」に襲われてしまった山村の現実が、ある意味、冷めた目で描かれている。
この連載部分とは別の章で、著者(大牧さん)は、「滅びの村」という言葉を使っている。
「ダム建設を目論んだ国=起業者は、まだ、飢えようとしていない村では都合が悪かった。だから、まず、次第に、村が、人々が、飢えるように仕向けていくことから仕事を始めた。そうとしか思えない。村は次第に衰微の一途をたどって行った。」(p239)
こうした人間、自然によって加えられた破壊と組み合わされるようにダム建設の話は村に持ち込まれてきたのであった。この外力による破壊の果てに村は、人間はどうなって行っただろうか。当時の亡き父の日記を拾い読みしてみると、父は余生をこの村と自然の中で暮らしたいと綴っているが、その一方で、『今日、ダムの話を聞いてきた。ダムは遠のいたというのでがっかりした』という、ダム早期建設を期待していた気持ちを率直に書きとめている。/父にしてみれば、どちらも本心というのでなっかったろうか。(p243)
「意識しないにせよ村の滅びをひとつの感覚として受けとめていた村人は、当初からこれを僻地ゆえに発展から取り残されている村からの脱出の契機として受けとめた、あるいは受けとめざるを得ないと考えた形跡がある。それは、起業者によっていちはやく見抜かれていたのではなかったろうか。」(p251)
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「ダム」が正義だった頃・・・地図で地形を眺めて、幾多のダム計画が生まれた。
揖斐川の徳山村と藤橋村の境、「猿が対岸に飛んで渡れる」と言われた狭い峡谷を塞げば総貯水量6億6000万トンの巨大なダムが出来る、という計算に喜んだダム技術役人が特に悪人だったとは思わない。
「”進歩”こそ価値、正義」「発展から取り残されている村から早く脱出せよ」というメッセージを送ったのは、起業者だけではなかったと私は思う。
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この記事が書かれた1976年には、私はまだ大垣にはいなかった(東京にいた)。
「徳山ダム建設」という計画を知ったのは、1978年か1979年くらいだった。
その頃は、上の「市政研」の写真とあまり変わらぬ風景だったように記憶している。
同時に「徳山村の人達は、ダムを受け入れている。補償金を巡る問題だけだ」と聞かされた。「(ダムなど作ってほしくはないが)三里塚闘争のような闘いを、徳山村民に外部から強いることはできない」という苦い心情からそう言ったのだ、と思った。
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元旦の朝。記憶が正しければ1980年元旦。
大晦日に雪が降った。だから、わざわざ揖斐川を遡ってドライブした。
雪の所為で、バスは(藤橋村)横山までしか通っていなかった。
横山ダムのところで道は「通行止め」となっている。「通行止め」を無視して通行するのは大好きとはいえ、ちょっと無理かな、と止まっていると、奥に向かって雪道を歩いている人がいる。
「これから本郷に帰る。バスがないから歩いて行く」
驚いた。
運転者(亡夫)は「行けるところまで送っていく」とかなり強引にその人を乗せた。
若干のアルコールの匂いと数日は入浴していないだろう体臭が狭い車内にこもった。
「しっかり稼ぎ、たくさんの土産をもって家族の元にいさんでところに帰省する」というのとは違う、ワケありな様子。
横山ダムのダム湖に沿った道を通るうちに、また雪が降り出して、ついに藤橋村鶴見のところで先に行くのを断念(そこから先、道はいっそう狭くなりカーブもきつくなる)。
「悪いけど、もうこの先は無理やわ」「ああ、半道(はんみち)やなぁ」
特に感謝の言葉を述べるのでもなく、その人は雪の中を歩いて行った。
偶然の出会いである。徳山村に、特にワケありな例が多かったとは思わない。
しかし、私は、漠然と「ダムがやって来る村」に漂う重い閉塞感の一断面を感じてしまった。
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1987年3月に、徳山村は廃村となった。
長良川河口堰反対運動がマスコミなどによく取り上げられるようになったのは、ちょうどその頃からである。
徳山ダムにはマスコミのスポットライトは浴びせられなかった。揖斐川流域住民である私たちも沈黙をしていた。
1995年末に「徳山ダム建設中止を求める会」を4人で立ち上げる時、「徳山村の人達からは『何を今更』と総スカンを食うだろうなぁ。それでもあえて」というのが、4人それぞれの『覚悟』であった。
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発足時、そして土地トラスト時、徳山ダム裁判提訴時。
マスコミはいつも同じ質問をしてきた。
「旧徳山村の何人くらいいますか?」
マスコミは「権力への抵抗派あるいは進歩的な環境派が、遅れた山村からも出てきた」ともてはやしたかったのだろう。
私はいつも”ツン”としながら答えた、「旧徳山村の人は会のメンバーにはいません。水没地住民と下流都市住民が、同じ感性で運動するのは無理があると思います」。
多分、「徳山村の人を会員にできなかった悔し紛れ」と受け取られたと思う、この 私の”ツン”は、質問するマスコミ、その背景にある”進歩的知識人”への苛立ちの表明であったのだが。
1980年代、90年代の「ダム反対運動」には、「環境の大切さを、ダムを推進する遅れた田舎に教えてやる」と言わんばかりの風潮が、確実に存在した。
冗談ではない。
ダムを作らせたのは(そして今焦眉の重大問題となっている原発・核施設を作らせたのは)、”進歩”を旗印とした都市文化そのものであったではないか。
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2000年夏、私はあるマイナーな雑誌に以下のような文を載せた。
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<終わりに>
ある旧徳山村民が言う。「今でも村を出たのが良いか悪いか分からない。ただ出てきたことで、子供に教育をつけてやることができた。これだけは良かったと思っている。」
首都圏に育ち、かつて大学を拒否して中退した筆者には、胸を突かれる言葉であった。学歴信仰は否定してきたが、都市で多くの情報に接する機会を得ることは、人としての幸福追求のための有利な条件となるという見方は否定していなかった。だがその背景には、東京を中心とする大都市を知性の頂点と考え、情報が一方的に流れるのを当然と考えてきた価値観、「進んだ都市と遅れた農村」という思い込みがありはしなかったか。
そうであれば、たとえ「反体制」的な言辞を弄したとしても、中央集権・官僚支配の政治システムと表裏をなすものに他ならないのではなかったか。
経済的条件もさることながら、この種の思い込みや価値観が、農山村住民の離村を促進させ、ダムや原発や産廃施設の受け入れを強いてきたのではないだろうか。
目的を喪失してもなお自然破壊的公共事業が強行されていく要因は種々指摘されている。情報を隠し操作する官僚機構、住民参加制度の欠落、利権がらみの政・財・官の癒着、民意を反映しない議会、公共事業の客観的評価システムの不存在etc.
しかし「悪いのは自民党や官僚たち、あれこれの制度」とするだけでは、「ダム」に現れた問題の本質的解決にはならないのではないか。私たち市民が自らを変えていくこともまた求められていると感じている。
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10年以上経って、なお基本的なところはまだ変化して(克服されて)いないと思っている。
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