番外編:伊藤晃平君裁判、画期的勝利的和解 |

伊藤晃平君裁判を支援する会 HP
http://smile.sa-suke.com/
和解条項
http://www.tokuyamadam-chushi.net/itowakai.pdf
原告最終準備書面
http://smile.sa-suke.com/judg_g_last.html
裁判実務の壁を突破した画期的勝利和解です。
「憲法」を輝かせる大切な一歩にしていきたいです。
いろいろな「人」の繋がりがあって、特に原告代理人弁護士との長い長いお付き合いがあって、私は「伊藤晃平君逸失利益裁判」の第1回口頭弁論に傍聴に行きました。そのまとめの会で「支援体制」が話し合われ、”流れ”で「支援する会」の世話人(共同代表の3名以外。数人)の端っこに連なることになってしまいました。
気がつけば3年近くが経ち、2月10日に第一審が結審しました。
判決言い渡し日は、3月30日と告げられました。
原告と「支援する会」は、「金山駅頭 街頭情宣」を強めました。裁判所にハガキを送ろう、という運動も展開しました。
「和解勧告」のカゲもありませんでした、28日夜までは。
そして判決前日になって「和解成立の見通し」となり、判決日だったはず法廷は「弁論再開、和解勧告、和解条項読み上げ」の場となりました。
画期的勝利的和解。内容も素晴らしい。
それ以上に、「これでもう裁判を続けなくていいね。良かった、おめでとう、ご苦労様、ありがとう」と原告の伊藤啓子さんに申し上げたい。
原告となった伊藤啓子さんは「障害者だからって生命の価値まで差別されるのはおかしい」と声をあげました。「晃平君がいなくなって、ラクになったでしょう。その上もっとお金が欲しいなんて」という心ない言葉が、実はたくさん浴びせられていたそうです。
啓子さんは闘った、原告代理人(弁護士)はもの凄い高い水準でそれを支えた、心ある専門家が意見書を書き、証人に立った。
そして、私も金山駅頭などでひしひしと感じました。
「生命の差別はおかしい、頑張って!」という支援の声の多いことを。
原告・弁護士・専門家、そして全国の支援の声が勝ち取った勝利です。
誰もが(すべての人が)、平等に、尊厳をもって生きていく社会への大きな一歩。
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近藤ゆり子の「雑感」のようなものを、リンクします。
こぜわしい中で書いているので、文字の間違いなども多いでしょうし、まとまりがありません。
でもお読み頂けると嬉しいです。
2012.4.1 近藤所感1
http://www.tokuyamadam-chushi.net/coment1.pdf
2012.4.3 近藤所感2
http://www.tokuyamadam-chushi.net/coment2.pdf
2012.2.19 結審直後に裁判所に出した手紙
http://www.tokuyamadam-chushi.net/tegami.pdf
◆ ◆ ◆
【近藤所感1】
裁判実務の壁を突破した画期的勝利和解!
「憲法」を輝かせる大切な一歩に
<経緯>
3月30日に判決が言いわたされるはずでした。
「支援する会」世話人(数名)は、「判決の日」の詳細なスケジュールを確認しあっていました、3月28日の夜まで。
3月28日夜、少し遅くなってから、「極秘。裁判所から和解の打診あり。判決2日前の和解勧告は異例中の異例。受け入れるかどうかは未定ゆえ、他に漏らさないで」という事務局長からのメールが世話人に入りました。
こんなに判決直前になってからの和解勧告は「聞いたこともない」。
「ありえない」と多くの世話人が受けとめました。
損保会社がからんでいます。「本社の決裁」をとるのに最低でも1ヶ月はかかる、というのが(少しでもこういう件について知識のある人にとっては)常識です。
「和解になるにしても判決になるにしても、最終的に決まるのは30日朝」と原告代理人からは言われていました。
ところが「和解」のためには弁論再開が必要だった(この民事訴訟法の規定に関しては今はパス)。29日夕方、裁判所から司法記者クラブに「弁論再開」(つまり「判決」ではない、ということ)という連絡があったそうです。
原告代理人に(「支援する会」事務局長にも)、マスコミから一斉に取材が入り、「支援する会」世話人に連絡するどころではなくなってしまいました。
で、世話人は29日夜のTVニュースで「30日に和解成立へ」を知ることになりました。
この裁判はかなり「原告側がおしている」という感触はありました。
「少しは前進した判決のはずだから、判決を貰えば良いのに」という声もありました。
また世話人らの経験では「和解」にあまり好印象をもっていない、ということもありました。 不安の声もあった・・・・
でも私は信じていました。
これまでの原告のピシっと背筋の伸びた姿勢、原告代理人弁護士の高い理論水準。
ダメな「和解」を受け入れるはずがない。
結審後に裁判所に届けられた全国からの声も、裁判所の心を動かしているはずだ。
<法廷で>
入廷前に「和解」ということはわかっていましたが、中味は全く知らされていません。
「裁判長が和解条項を法廷内で読み上げる」というのが和解条件だった、と聞いたとき、「これは素晴らしいに違いない」と思いました。
倉田慎也裁判長は、まず冒頭に「生命の平等を訴える遺族の主張を踏まえ、損害の公平な分担をすべきだと考えた」と述べました。
「生命の平等」にはっきりと言及しました。
事実上「原告の言い分は、全くもってその通りだ」と言ったに等しい。
<和解条項>
そして和解条項の読み上げがありました。
(和解条項は、 http://www.tokuyamadam-chushi.net/itowakai.pdf に)
金額がどうこうは原告代理人に説明されないと「わからない」。
しかし和解条項「1」はきくだけで「わかる」
「全面的勝利」と私は感じました。
私は全くのシロウトですが、この日に原告代理人から説明されたことを基にして少々。
<逸失利益>
「障害者の逸失利益はゼロ円」
耳を疑う話ですが、それがこれまでの判例などによる裁判実務のありかたでした。
軽度の障害児(者)に対しても非常に低い「逸失利益」しか認められてきませんでした。
伊藤晃平君のように最重度と判定されている障害児(者)の逸失利益は「ゼロ円」しか認められてきませんでした。最重度障害の人には、全く就労可能性を認めてこなかったのです。
この和解条項では、就労の可能性を認め、773万8370円まで認めました。
金額も「破格」の高額です。
伊藤晃平君は最重度障害と判定されていました。画期的です。
就労可能性を認めながら、障害年金1級(『働けない』との判定)を基に計算したのは一種の論理矛盾ですが、最低賃金を基に計算するより高額になります。できるだけ「健常者」に近づけるためにこういうテクニックを使ったのだろう、と思います。
<慰謝料>
慰謝料は「障害者か健常者か」で違うはずがないのに、これまでは差別がありました。
この和解では「ごく普通の」金額となっています。つまり差別はない。
◇ ◇ ◇
「障害者の権利」を大きく前進させました。
今は、丁寧に論証することができませんが(「原告最終準備書面」を読んで頂ければ、少しわかっていただけるのではないか、と)日本国憲法の下での「人が平等に尊重されて生きる権利」を大きく前進させたといえます。
憲法14条と25条がリンクし、「誰もが(すべての人が)等しく尊厳をもって生きる」ことの権利性を固めることに貢献します。
どうか皆さん、この「勝利」を喜んで下さい。
そしてこの地平を広げて下さい。
「誰もが(すべての人が)等しく尊厳をもって生きる」社会の実現に向けて!!!
近藤ゆり子
2012.4.1
◆ ◆ ◆
【近藤所感2】
改めて所感・雑感
15歳の伊藤晃平君が障害者福祉施設の利用中に事故で亡くなってしまったという、この大変不幸な事件の背景には、日本の貧しい福祉行政があります。
(適切な言葉がわからないので、以後、障害者に関わる行政、福祉行政を、まとめて「福祉行政」と言います)
そのことは、伊藤晃平君裁判の証人尋問でも、浮き彫りになりました。
つまり、同様な不幸な事件は、全国各地のどこでも起こりえるものであり、現に起こっています。とても心が痛む現実です。
◇ ◇
この事件の被告であるM福祉会は、和解条項で
「障害者の命を預かる立場にある者として求められる注意を欠いた結果、(自分の)施設内において、亡伊藤晃平の転落事故を発生させ、死亡というとり返しのつかない結果を生じさせたことについて、原告らに対し、心から謝罪する。」
と述べています。
M福祉会は、きっとより良い福祉会になっていくだろう、と私は素直に信じています。
しかし、これだけ大きな前進となったこの裁判を「この事件限り」にするのは余りにもモッタイナイ。
事件の背景に横たわる根本的な問題、つまり日本の貧しい福祉行政、それを生み出している貧しい福祉思想を、より良いものに変えていく梃子にしたい、と感じています。
この画期的勝利和解は、きっと全国各地の障害者の、その権利を確立していく道筋を照らす光明となるでしょう。
「誰もが(すべての人が)、平等に、尊厳をもって、生きていく」社会を目指す気持ちは、みな持っていると思います。
多くの人がこの”光明”を知り、その歩みを大きく進める一助になれば、「支援者冥利」に尽きます。
◇ ◇
私は「責任者の免罪」をするつもりはありません。
しかし、じっくり考えてみれば、この社会を形成しているのは、私たち一人一人であるからには、貧しい福祉行政の責任のいったんはある、とも言えます。
この画期的勝利和解を広げ、また実り多きものを生み出していく、それが亡くなった晃平君への追悼であり鎮魂だ、というふうな気もます。
◇ ◇
原告・伊藤啓子さんのピシっと背筋の伸びた「ぶれない」姿勢。
これがなかったら、この和解の地平は切り開かれませんでした。
原告代理人弁護士のたぐいまれなる努力と理論水準の高さがなかったら
原告側で意見書を書いて下さった専門家の協力がなかったら
原告を支え続けながら大きく支援の輪を広げた落合さんの精力的な活動がなかったら
梅尾朱美さんをはじめとする愛視協の方々
小池公夫裁判の方々
「支援する会」に集った人々
そして
署名やハガキで応援して下さった多くの人々
どれが欠けても、この勝利的和解はなかったでしょう。
皆さまに、心からの感謝を捧げます。
2012.4.3
近藤ゆり子
◆ ◆ ◆
【結審直後に裁判所に出した手紙】
名古屋地方裁判所 民事第6部合議係
裁判長 倉田慎也 様
裁判官 島崎邦彦 様
裁判官 久保雅志 様
2012年2月19日
〒503-0875 岐阜県大垣市田町1-20-1
近藤 ゆり子
私は、伊藤晃平君の逸失利益裁判(受理番号 平成21年(ワ)第2957号)に高い関心もっています。貴裁判所が、来る3月30日の判決において、憲法の本質的趣旨に基づき、公正で勇気ある判断を示されることを、要請いたします。
私は、2009年に第1回口頭弁論が行われるという案内を知人から受け取り、傍聴して以来、口頭弁論の傍聴を続けてきました。
「他人ごとではない」と感じています。
それは主に下に述べる二つの経験からです。
(1)交通死亡事故賠償における女児差別
1960年代前半、私が中学生のときです。報道で、裁判所が「女児は男児よりも将来得べかりし利益(逸失利益)が小さいので、交通死亡事故の賠償金額が(遙かに)低いのはやむをえない」との判決を下した、ということを知りました。驚き、憤り、悲しみました。
「裁判所ですら、差別や不正義を追認するのか!」
このときの衝撃は半世紀を経た今でも忘れられません。
私の子どもの頃は、公然とした女性差別がまかり通っていました。「女の癖に」「女は男より下」という言辞は日常的に存在していました。そういう言辞に接する度に、幼い私は猛然と反撃しました、「新ケンポウではね、男女平等なのよ!」
「現実社会では差別が横行しているけれど、『憲法』という土俵で判断する裁判所では差別はないはずだ」と、ある意味では根拠無く信じていた私の裁判所への期待と信頼は打ち砕かれました。これはいっときの衝撃・悲憤では済みませんでした。「こんな差別と不正義だらけの社会で、私は大人として生きていくことができるのだろうか」という疑問が膨らみました。中学・高校時代を通じて”生きづらさ”感、日常的な希死念慮を抱えることへと繋がりました。
裁判所が現実にある差別を憲法の趣旨より優越させたことは、当該裁判の当事者にとどまらず、苦しみを与えることになったのです。
この伊藤晃平君の逸失利益裁判における被告側の主張は、端的にいえば「障害児(者)は、稼げないのだから、賠償額は低くて当然だ」「健常児(者)と障害児(者)の落差は合理的な区別だ」というものです。このような被告側の主張を貴裁判所が容れるなら、社会全体に大きな苦痛をもたらすことになります。
裁判所は、差別と不正義を追認してはならないはずです。
どうか憲法の理念が見える判断をして下さい。
(2)「生きていることそのもの」に価値がある
2009年7月、父が逝きました。
私の父は、元気なとき「家族の顔も分からなくなったり、シモの世話になりながら生きているのは惨めだと思う。そんなふうになったら周囲に迷惑をかけたくないので、早く死にたい」と言っていました(姉と私に書面でその旨を示しました)。そして「重度の障害者が福祉の世話になりながらノーマライゼーションなどと主張するのは甘え、わがままだ。そうした要求に(行政、社会が)応えるのは、健常者への逆差別だ」と言っていました(私とよく口喧嘩になりました)。
2003年、父は脳出血で倒れました。
自分で身体を動かすことができなくなり、意思疎通もできなくなりました。
「家族の顔も分からなくなったり、シモの世話になりながら生きている」状態になったのです。
でも父は、施設のスタッフの皆さんに愛されながら、穏やかに、機嫌良く過ごしました。
父を介護する施設のスタッフの方々は、皆さん、姉と私に言って下さいました。
「H先生はね、何かしてあげるといつも『サンキュー』『ダンケ』と感謝してくれるんですよ。痰の吸引などは苦しいのだけど、それでも終わると『ダンケ』とおっしゃる。そうやって言って下さると、私たちスタッフも嬉しいです。」
「惨め」ではなかったし、「死んだ方がマシ」でもなかったのです。
父は身をもって「生命はそこにあるだけで価値がある」ことを示しながら逝きました。
まして、伊藤晃平君は前途ある15歳の少年でした。
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原告らは、障害のある亡晃平というかけがえのない個性に寄り添い、亡晃平の成長に向き合ってきた。亡晃平の成長する姿に、自閉症も治るのではないかと期待し、亡晃平の自立へ向けた努力を重ねてきた。亡晃平は、限りない生き甲斐を原告らに与えてきたのである。
他方、亡晃平は、他者の支援が不可欠という障害を有しているが故に、亡晃平を慈しみ、愛する人々を必要とした。亡晃平はこうした人々の支えの中で、生きることの幸福を知る途上にあった。 【 原告準備書面(1)】
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なぜその生命が、健常児(者)より価値が低い、などと言えるでしょう。
貴裁判所が、賢明なるご判断を示されるよう、心からお願い申し上げます。
以上
