私は神懸かりの巫女、憑かれて踊りつづける |
~ 気ちがいゆり子をあるがままに認めて~
これをアップしようとしているうちにどんどん日は過ぎました。

私は「私は『気ちがい』だ!」と自慢げに周囲に言います。
「その言葉は差別語だ、自分を貶めるな」と忠言して下さる方があらわれる。貶めてなんかいません、私が自らを「気ちがい」と呼んで、どうして差別になるのでしょう。
他にも「休め」とか、躁病者にいってははならないこととを「親切に」言ってくれる人の多いこと。
私は、善意の忠言に、本当に疲れ、ときに大きく傷ついています。
これを読んで、少しは「気ちがい」を理解して下さい。

1.私はかなり重い双極性障害の患者です。12年、精神科に通っています。
今は躁状態。かなり重症。
もし私が入院を希望したら、主治医は入院手続きをとってくれるでしょう。
2.私は、この状態になって、一気にいろいろなものが(ことがらが)見えるようにうなりました。過去を詳細に思い出し、未来を透視する。
「気ちがい」=神懸かり=予言者=卑弥呼もしくはジャンヌダルク
ジャンヌダルクは少女。まあ21歳か22歳までくらいならガマンができるけど、三十路をすぎた女が「私は●●のジャンヌダルク」と自称するのはやめて欲しい。
だから私は自分を「卑弥呼さん」と呼ぶことにします。「卑弥呼さん」なら老婆であっても良い。

(1) 躁病者に「休め」と言わないで、苦しいです
生活保護関係のMLでのやりとりです。
当事者からの投稿の一部に反応しました。
>うつ病患者に「ガンバレ」ものです(苦笑)。
に反応。
私はかなり重い双極性障害の患者です。
今は躁状態。
ほとんど寝ないで走り回っています。
完全に「神懸かり」状態。
なんせ、寝ない、食べないで何事かやってしまうんですから、「近藤ゆり子は3人居る」という奇っ怪なウワサもあながち根拠がなくもない。
こういう私に、私を「評価」して下さる方が、毎日毎日、入れ替わり立ち替わりおっしゃるんです。
「少し休んだほうが良いですよ、身体が大事。あなたに何かあったら私が心配、困る。見ていられない。どうか休んでね」

わぁぁあ、それって、私に向かって「永遠に休め、死ね」と言っていることになるの、何でわかって貰えないんだろう。神懸かりになっている巫女の踊りを無理に止めたら、巫女は死ぬ、硬直し、目を剥き出して、口から泡を吹いて、倒れて死ぬ。
当たり前ではないですかぁ。
私に「休め」と声をかけて下さる人は「自分私が気になって困るから、自分の心の平安のために、あんた死ね」って言っているつもりはないよね。
あなたの心優しい主観的善意はよくわかっています、でも「休め」と言われるごとに、私の心は深く傷付いて行くんです・・・。
私は力無く微笑むか、はしゃいで言うか
「休めと言われて休めるくらいなら、病気とは言わない。いつも言っているように、私は躁鬱病患者で、なかなか自分のテンションをコントロールができないのです」
でもたいていは言います。
「ああ、なるほど。でも休んだほうが良いですよ。もう少しテンションを下げて。身体を壊してしまうから」
タスケテ!
さすがの私が追いつめられる。
「ゆり子殺すにゃ刃物は要らぬ。優しい言葉をかければ良い」

主治医は言います。
「闘い続けられるようにお薬を調整しましょう」
これで私は少し救われる。
「そう、私は闘い続けたいんです、闘い続けていいんですね。闘ってていいんですんね。
ドクターストップで闘うことを止められたら・・・・私はきっと自殺するでしょう。
どうか私を助けて下さい。もう少し、闘い続けさせて下さい。」
私に「休め」という人たちは皆、社会的関心も高く、とても優しい心をもっています。
だから何らかの意味で闘っている人ばかり。精神病患者への偏見なんてありません。
でもあるんです。根深い偏見と差別。
重い精神病患者は、社会的には廃人なのだ、という偏見。
およそ廃人ではない近藤ゆり子が精神病患者であるはずがない、と思っているんです。
私は病気です、気ちがいです、狂気です。
だから、今の私は「鋭く、正しい」
どうか私をしばらく狂気のままにしておいて下さい。
「気ちがい」の私をただ見守っていて下さい。

(2) 「気ちがい」は差別語ですか?
あるMLに投稿しました。
内容的に以下のことは前か後ろかのブログに載せるつもりです。
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小沢一郎+脱原発の近藤昭一
これにひょっとすると 原発ゼロの会の阿部ともこが合流するかも知れません(福島みずほ+社民党地方組織とはどうしようもないほどこじれているから)
社民党から阿部ともこに合流するのも出るでしょう。
みんなの党に中にも「自民党青嵐会直系」の新憲法草案は勘弁したほしい、というのがいるに違いないです。
この構図で、私がどこを応援したいのか、は、すでに4月15日のブログで宣言しています。
ね? 神懸かり・気ちがい卑弥呼さんは予言ができる。
政界再編の序章? 前田国交大臣のクビ問題
http://tokuyamad.exblog.jp/17426618/
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> 神懸かり・気ちがい卑弥呼さんは予言ができる。
お気持ちは伝わりますが、「気ちがい」という表現は精神障害者に対する「差別語」
と言われています。一考をお願いします。
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どひゃぁあ。 この底抜けの「善意」こそが差別を肥大させ、精神病患者を追いつめる。
「気ちがい」を「差別語」としている意識こそが、精神障害者(精神病患者)差別なのです。
きっとこう考えておられるのでしょう。
精神を患っている「気ちがい」は社会的廃人であって、言うことは支離滅裂、聞くに値しないに決まっている。
近藤ゆり子は(みてくれは若干奇異だが)、論理的でまともなことを言っている、ゆえに精神障害者(精神病患者)ではない。
ということは、近藤ゆり子が自分のことを「気ちがい」と呼ぶのは、一種の衒いであって、事実として精神疾患はないし、本当は自分を「気ちがい」などとは思っていない。
だからその言葉は差別だ。
「精神病患者=廃人」ではありません。「常人を超えて能力を発揮し、異常に正しい」。
そういう「気ちがい」の存在を認めるべきです。
「精神病患者=気ちがい=廃人」。
だから社会的には存在しないかのようにひっそりと暮らせ。そうだ、「精神病患者=気ちがい」は社会的に抹殺されても構わない、いやそのほうが良いのだ。
こんなに非道い「差別」はないでしょう? これではまるでナチスだ。

今、私は、国交省本省、関東地整、中部地整のお役人の方々をかけずり回らせています。
八ッ場ダム 目標流量への意見がどうこうなんてくだらない
やるべきことを早くやれ
http://tokuyamad.exblog.jp/17587179/
続・八ッ場ダム 目標流量への意見がどうこうなんてくだらない
『アカウンタビリティの向上行動指針』はいずこ?
http://tokuyamad.exblog.jp/17594040/
あんまり「詳しく正確」なもので、河川官僚さん、真っ青。
「本省課長の誰よりも、河川局長よりも」近藤ゆり子が「詳しい」。
条文摘示や、「逐条河川法解説」のページ数につき、私は全く調べたりはしていません。
だから2時間で書いてしまいました。
調べなくても「知っている」のです。官僚さんに「間違っていたら、教えてね」と言っているけど、今も間違いは探せていない。
つまり「近藤ゆり子は異常に正しい」
ね? 「気ちがい」は大したものでしょう? こういうところでは。

野暮な解説を加えると
「躁」とは脳内物質が過剰な状態。 だから「頭の回転」が常人の数倍に亢進する。
「普通なら記憶の底に沈潜してしまっているようなことがすべて思い出せてしまう」
文章を考えてはいません。言葉が次々とわき上がって止まらない。止まらないから書き続ける。多分、私にキーボードを叩く技術がなければ、「夜中に独り言を呟き続ける」という、皆さまご期待通りの「気ちがい」になれたでしょう。

彦坂諦さんという、心も気持ちもとても鋭くて優しい文章家は、以前から「キチガイを敬愛する」とおっしゃっていました。
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近藤さん、
これ、読んで、なにも「いらえ」を送らずに寝るわけにはいかなくなった。
あしたにそなえて、もう寝ようっておもってた矢先だよ。
100%共感!
じっさい、わたしもいくどか言わたよ、それは「差別用語」だから使うなって。
だから、あてつけにキチガイってカナで書いてやった。
わたしにとっては、というより、いまは亡きわが絶対の恋人にとって、キチガイということばこそ至高のことばでした。
白井愛は、じじつ、キチガイだった。
わたしは、そのキチガイを気が狂うほどにオシタイモウシアゲル「キチガイ志願者」だった。
このさいだから言っておく。
それは「差別語」だなんてかるがるしく言いたもうな。
そうやって、ことばだけを、それも文脈から切りはなした「単語」だけをあげつらうこと、
それこそが差別への第一歩であることをすこしは自覚していただきたい。
そう言われるひとの身になってみなさい?
よけいなおせっかいするんじゃない。
そういうひと自身が差別されていて、わたしのことばによって傷ついたというのなら、
直接、具体的に、このわたしにそう言ってほしい。
真摯に向きあいますよ。
でもさ、そんなこと言うひとにかぎって当人じゃないんだ。

近藤さんは正真正銘のキチガイだって自分で言ってる。
自分のことを指して言ってるのに、それが差別だって言うのか?!
差別ってのはね、客観的にあるもんじゃない。
切れば血の出るからだも名前も心もある具体的な人間が、
ほかの具体的な人間を差別するのだ。
なにが差別であるのかは、その具体的な人間と人間とのあいだで、
具体的なふたりの関係のなかで、
きまっていくことじゃないんですか?
「めくら」「つんぼ」「てんぼう」などなどの放送禁止用語がおおっぴらにまかりとおっていた時代、
そういったことばをなんのためらいもなくつかっていたひとびとのあいだで、
いまから固定的に見れば差別であるとおもわれるようなことがらであってさえ、
じっさいにはそうではなく、ひととひととの個別的で直接的な関係の表徴であった、
といった事例ならいくらでもある。
むかしは、村内に、町内に、一人はいた。
いまなら歴然たる差別語と言われる表現で呼ばれているひとが。
そういう表現でそのひとを呼びながら、そう呼んでいるひとたちは、そのひとに対して
それなりに親切であたたかかった。
抽象的に、観念的にあれこれあげつらうもんじゃないですよ。
つねに、具体的に、いま目のまえでおこっていることを、
いま目のまえにいるひとのことを、
自分の感覚で、じかに、そのまんまに、とらえるこった。
きりがないので、ここらへんでやめるね。
ひこ
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繰り返します。
「気ちがい」を「差別語」としている意識こそが、精神障害者差別なのです。
「精神病患者=気ちがい」になってみると、そのことが鮮明に見えてきます。
「精神病患者=廃人」ではなく、「精神病患者=気ちがい」で「気ちがい=卑弥呼、この世を予言し、語り。助ける者」だといういことが。
「気ちがい」こそが世界を救うんです。
ジャンヌダルクも「気ちがい」でした。
私は稗田阿礼のごとく言葉を紡ぎ、卑弥呼のごとく予言する、今、この瞬間は。
