大滝ダムのこと(3) |
(承前)
★ 読売新聞奈良版 企画連載 大滝ダムの半世紀

☆ 大滝ダムの半世紀 上・地滑り集落を分断
(読売新聞奈良版 2013年3月24日 )
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/feature/nara1364045445966_02/news/20130323-OYT8T01042.htm
◆古里をなくすほど、つらいことはない

「古里をなくすほど、つらいことはありません」
橿原市石川町で暮らす井阪勘四郎さん(84)は苦しそうな表情を浮かべ、そう語った。
大滝ダムの完成が間近に迫っていた2003年4月。井阪さんら37世帯77人が暮らす川上村白屋地区で突然、民家や道路に亀裂が入り、地面に数メートルのずれができた。ほどなく試験貯水による地滑りと判明。全員が引っ越しを余儀なくされた。
村内に建てられた仮設住宅で3年半の避難生活を過ごしたあと、井阪さんら13世帯は橿原市へ移った。12世帯は村内の別の地区へ、残り12世帯は親戚や知人を頼って村外へ出て行った。
白屋地区には901年創建とされる白屋八幡神社があり、住民が交代で神職を務める「宮守制度」が代々、受け継がれていた。住民は順番が巡ると毎日のように境内を掃除し、年3回の大祭でみこしを担いだ。「いつでも助け合う結束力の強さが魅力だった」と振り返る。

(写真)移築された神社の前で古里への思いを語る井阪さん(橿原市で)
神社は2009年、井阪さんらが住む宅地そばに移築された。だが、住民が減り、宮守制度も祭りも途絶えた。「地区がバラバラになり、伝統や風習が失われたことが何より寂しい」と声を落とす。
月に1度、墓参りのため白屋地区に戻る。長年暮らした家は取り壊され、更地になった。
「このままでは、何もかも忘れ去られてしまう」。危機感を募らせ、昨年末、仲間と資料を集めて地区の歴史と移転の経緯を昨年末、本にした。苦しみをともにした37世帯に無料で届けるといい、「古里は返ってこないが、せめて、ここであったことを後世に伝えなければ」と力を込める。
ダムを真下に望む村の高台に移った大舟克夫さん(78)は、「やっぱりこの村が好きで、離れられなくてね」と話す。

(写真)ダムを見下ろす高台で引っ越した住民たちと話す大舟さん(右端)(川上村で)
37世帯は当初、丸ごと移転できる地区を村内で探したが、平地の少ない村では、かなわなかった。候補地数か所を見て回り、「日当たりが良い環境が白屋と似ている」と、この地で自宅を再建した。
ダムの周辺整備の恩恵で道路が整備され、生活自体は格段に便利になったと感じる。「ダム建設には、いい面も悪い面もあった。ここまで来たら受け入れるしかない。ダムを見に来る人が増え、村に活気が戻れば」と願う。
◇
1959年の伊勢湾台風の被害を機に、国が60年から予備調査を始めた川上村の大滝ダムが完成した。
吉野川流域の治水の切り札として期待される一方、ダム湖への水没や試験貯水による地滑りなどで530世帯が移転、うち約400世帯が離村した。住民がダムと歩んだ半世紀を振り返る。
☆ 大滝ダムの半世紀 中・「治水のため」苦渋の同意
(読売新聞奈良版 2013年3月26日 )
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/feature/nara1364045445966_02/news/20130325-OYT8T01450.htm
◆村で過ごした日々や風景忘れたくない
1959年9月26日、和歌山県潮岬に上陸した伊勢湾台風は、川上村にも死者・行方不明者72人、全半壊・流失・浸水家屋487戸という大被害をもたらした。
吉野川が氾濫し、道路はズタズタに寸断された。山肌がむき出しになり、家屋は土砂や濁流で倒壊。のどかな山里は、一夜で壊滅した。
台風の記録係として翌日からカメラを持ち、被災地を撮り続けた村の元職員辻井英夫さん(79)は「現場は、まさに地獄絵図。悲惨で、外に出せない写真もたくさんあった」と語る。
辻井さんによると、被害がとりわけ甚大だった高原地区では高さ200メートル、幅150メートルに渡って山津波が起こり、住民らをのみ込んだ。
建設省(現・国土交通省)が、治水を主目的にしたダム建設の予備調査に入ったのは、翌60年だ。
村内では既に別のダムの建設が進んでおり、多くの住民は「これ以上のダム建設は、村の存亡にかかわる」と危機感を募らせ、反対期成同盟を結成した。激しい反対運動を展開し、同様の運動が盛り上がった群馬県の八ッ場(やんば)ダムと並んで、「東の八ッ場、西の大滝」と呼ばれた。
反対運動を無視して進む調査を妨害するため、上流から汚物を川に投げ入れたこともある。国の職員と衝突する一方、建設中止を求めて県に直訴も行った。
だが、反対運動は次第に下火になり、村は81年、建設省、県と建設に同意する覚書を締結。立ち退きに同意し、村内外の新天地で生活再建を図る人たちが増えていった。

(写真) 村への思いを詩や俳句につづる吉田さん(橿原市の自宅で)
78年、橿原市へと引っ越した吉田規一さん(91)も、その一人だ。
川上村で生まれ育ち、吉野川でよく泳いだ。山や河原では、鍛冶職人だった父が使う木炭用の雑木を拾い集めた。「川は、いまよりずっと清らかだった」と懐かしむ。
伊勢湾台風では営んでいた自転車店兼自宅が濁流にのまれ、家族5人で着の身着のまま高台に逃げた。翌年、村内で自宅を再建。父の後を継いで鍛冶職人になった兄を手伝った。
村への愛着は人一倍、強かった。「古里を捨てるのはつらい」と悩み、兄が村を出る決断をしたあと、立ち退きに同意した。
「村で過ごした日々や風景を忘れたくない」と、自作の詩と俳句を昨年夏、冊子にまとめた。「故郷」では「俺等(ら)が育った家が今 ダムの湖底に沈んでる 仕方がないんだ国の為(ため) 涙をのんで 明日を待つ」とつづった。
「治水は国策で、住民のため」と受け入れたが、村は急速にさびれ、祭りや行事も減った。山野はコンクリートに変貌し、「これでよかったのか」と思う。
ただ、補償交渉や山林の買収が遅れに遅れたダムの完成は、その後も、大幅にずれ込んだ。吉田さんが「自宅がダム湖に沈んでいった姿を思い出し、いまでも胸が締め付けられる」という2003年の試験貯水で、白屋地区に地滑りが起きたためだ。対策工事が必要になり、完成まで、さらに10年の歳月を要した。
☆ 大滝ダムの半世紀 下・観光、学習の場に活用
(読売新聞奈良版 2013年3月27日)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/feature/nara1364045445966_02/news/20130326-OYT8T01449.htm
◆利水、発電地域に貢献

大滝ダムの治水容量は6100万トン。建設した近畿地方整備局によると、試験運用が始まっていた2012年9月の台風17号では、下流の五條市で、吉野川の水位を1・5メートル下げる効果があった。
今後、県南部を11年9月に襲った台風12号豪雨のような被害をくい止めることができるかが注目される。
谷本光司局長(57)は「治水機能は、飛び抜けて高い」と強調する。
流域の下市町出身。川上村に子供の頃、住んだこともある。住民の激しい反対運動で大滝ダムと並び称された群馬県の八ッ場(やんば)ダムの工事事務所長も1997年から4年間務めた。

「移転した世帯や建設にかかった期間は、ともに全国トップクラス。社会的な影響も大きかった」と振り返る。
白屋地区で試験貯水による地滑りが起こった2年後の2005年には、同整備局の河川部長として対策工事を指揮。専門家の意見をいれ、被害が確認されていなかった他の2地区でも同様の対策工事を実施した。
結果としてダム完成は大幅にずれ込んだが、「こうなった以上は、時間がかかっても安全を優先しなければと思った」と述懐する。
谷本局長は「完成は、住民一人ひとりのつらい決断と協力のおかげ」と改めて感謝し、「利水、発電能力、夏場の渇水対策とあわせて、地域に必ず貢献できるダムになる」と力を込めた。
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大きな代償を払った川上村。人口は約1700人と、1960年当時の5分の1近くに激減しており、過疎化に歯止めをかける道を模索する。
昨年7月にトップに就いた栗山忠昭村長(62)は、ダムとの共生に村の未来を見いだそうとしている。

(写真)栗山村長
村は、吉野川の水源保全を目的に、1999年以降、ダム上流に広がる原生林約740ヘクタールを購入しており、「水源地の村づくり」を掲げる。栗山村長は「今後は、これらの『緑のダム』とあわせてダムを観光や学習の場としても活用していきたい」と意気込む。
具体的には、「広大なダム湖を活用してカヌーの競技場を整備し、マスをはじめとする釣り場も設けたい」と夢を膨らませる。「やはり、多くの人が出入りする村でなくては。ダム周辺をバラエティー豊かなスポットにして、全国にアピールしていきたい」と計画を練る。
(この連載は川本和義、児玉圭太が担当しました)
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