「ダムは正義」だった時代はまだ終わっていない |
~ 黒四(くろよん)ダム完成から半世紀 ~
6月5日(水)、郵便受けから夕刊を取って、その場で広げて、下の記事が目にとまった。 いろいろな想いが去来した。
「黒部ダム」ではどうもピンとこない。黒部川第四発電所のためのダムで「黒四(くろよん)ダム」。黒部第二、黒部第三がある。黒部川には他にも黒四ダム以前のダムが数多存在する(※)。それらのダム建設の犠牲者数は夥しいと聞いている。
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小説「黒部の太陽」が新聞連載されたのが、完成の翌年の1964年、東京オリンピックが開催された年だった。中学三年生だった。
同級生のK君が、この小説に言及して「僕はダム工事の現場監督になりたい!」と少し興奮気味に話していたのが強く印象に残っている。千葉の中学生なのに近鉄バッファローズのファンを自称し、いつもはちょっと斜に構えたセリフを吐くK君。およそそんな素直な可愛げのあることを言いそうになかったので、非常に驚いたので記憶に残っている。
その後、映画「黒部の太陽」が大ヒットした。「国民の皆々様」が感動した。
高度成長の時代、「ダムは正義」だったのだ。
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黒部峡谷は深くて険しい。
急峻な川だからこそ、黒部川は国策としての「電源開発」の対象となった。
数多のダムが建設された。
(激しい堆砂、その排砂による富山湾の凄まじい環境被害に関してはこの稿では触れない)
※ 黒部川 関電パンフから 一部抜粋 ↓
PDFファイル http://www.tokuyamadam-chushi.net/sonota6/kandenpanf.pdf
宇奈月側からはトロッコ電車で欅平まで行ける。
黒四ダムには「立山黒部アルペンルート」で行ける。
だが、欅平から黒四ダムまでの黒部峡谷-十字峡、下廊下、白竜峡など-は、「登山上級者」でなければ、足を踏み入れられない。夏山でも十分な体力と経験と装備がなければ、危険なルートである。この登山道は、登山を楽しむた、白州強めに作られたのではない。黒部川「開発」、つまり電源ダム建設のために作られた。多くの労働者が犠牲になった、特に朝鮮人労働者が。
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「徳山ダム建設中止を求める会」を立ち上げた直後(1996年のはず)、亡夫・正尚が岐阜県での朝鮮人強制連行の事例の聴き取り調査のお手伝いをしたことがある。戦時中、西濃では、石灰採掘や東海道線複線化工事で、多くの朝鮮人労働者が働かされていた。その具体の証言を集める調査に協力して垂井町のある方を訪ねた。。
正尚が訪ねたのは、石灰採掘でも東海道線複線化工事でもなく、黒部川のダム建設に携わっておられた方だった。
「険しい崖の中腹に作られた細い急坂を、重くてかさばる荷物を担いで運ぶ仕事。少しでもバランスを崩せば深い峡谷にまっさかさまに墜落する。ろくな食べ物も与えられないでそんな仕事をさせられるのだから、毎日のように犠牲者が出た。自分は昭和十年代の初めに日本に来ていたので、少し日本語ができた。強制連行で連れられてこられた同胞を監督し、仕事を割り当てる立場だった。『これはとりわけ危ない、まず生きては帰れない』と思われる仕事を誰かに割り当てねばならないのは、辛かった」
全国各地のダム工事に強制連行された朝鮮人労働者が使役され、多くの犠牲者が出ている。十分な調査はされていない。
1997年11月22日、丸山ダム湖畔で、丸山ダム建設で犠牲となられた朝鮮人労働者の鎮魂のための「丸山ダム犠牲者鎮魂祭」が行われた。韓国の巫堂(ムーダン)によるオグィセナムクッが行われ、亡夫・正尚も鎮魂の曲である平曲「祇園精舎」(復元)を演奏した。
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民族時報 第836号(97.11.11)
http://korea-htr.org/jp/831840/jp83610an.html
▼韓国の巫堂(ムーダン)による丸山ダム犠牲者鎮魂祭「オグィセナムクッ」
◇日時=十一月二十二日(土)午前十一時
◇場所=丸山ダム(名鉄電車八百津駅下車、岐阜県加茂郡八百津町港向1539)
◇主催=同実行委員会0573―66―7434/052―461―6507
◇共催=岐阜県地下壕研究会
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正尚が、鎮魂の曲として「祇園精舎」を演奏する最後の機会になったのだった(1998年9月5日急逝)。
そしてこの「オグィセナムクッ」が行われた湖畔の広場は、新丸山ダムが建設されれば水没してしまう。
新丸山ダム 国土交通省 中部地方整備局新丸山ダム工事事務所
http://www.cbr.mlit.go.jp/shinmaru/
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「黒部ダム50年」に関連して多くの報道がなされた中で、中日新聞と読売新聞のウェブ記事をば。
☆ 中日新聞 20013.6.6 [北陸発]
難工事経て 黒部ダム50年 尊い犠牲 171人に感謝 現地で慰霊祭
[写真]慰霊碑の前で大勢の関係者らが冥福を祈った「くろよん50周年慰霊祭」=5日午後、富山県の黒部ダムで(吉野茂之撮影)
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2013060602100007.html
高度経済成長期の電力需要をまかなうため建設された関西電力の黒部ダム(富山県立山町芦峅寺)は五日、完成から五十年の節目を迎えた。ダム敷地内の慰霊碑前で慰霊祭が営まれ、関係者が一九六三(昭和三十八)年の完成まで七年間にわたる難工事で犠牲となった作業員ら百七十一人の冥福を祈った。(青木孝行)
関西電力北陸支社の吉津洋一支社長(56)は「(ダムは)電力の苦しい時期に水力発電で貢献してくれた。工事は、その後の土木技術の発展にも寄与した」とあいさつ。犠牲者に「心から感謝している。黒部ダムを五十年後、百年後にも伝え続けていく」と語りかけるように述べた。
工事に携わった鹿島や佐藤工業のほか、富山県や同県黒部市、立山町、長野県大町市の関係者計二十七人が出席し、読経の中、焼香した。
熊谷組の大田弘社長(60)=黒部市(旧宇奈月町)出身=も参列。熊谷組は担当した作業用トンネル工事で、水が噴き出す破砕帯に苦しめられた。
取材に対し「(この工事を描いた)映画『黒部の太陽』を見て土木技術者を目指し、熊谷組に入った」と振り返り、「故郷での工事が現在の私を導いてくれた。尊い犠牲の上に、技術の進歩が成り立っていることを忘れてはならない。その情熱に何と感謝したらいいか」と言葉を詰まらせた。
黒部ダム 高さ日本一、観光名所
黒部ダムは、黒部川の急流をせき止めて造られたアーチ式ドーム型ダム。高さ百八十六メートルは日本一で、総貯水量は二億立方メートル。蓄えられた水を関西電力の黒部川第四発電所で利用することから「黒四ダム」とも呼ばれる。
高度経済成長期、関西での電力不足解消のために関西電力が計画し、一九六三(昭和三十八)年に七年の歳月をかけて完成した。総工費五百十三億円は、関電の資本金の四倍に上った。
「世紀の難工事」となり、延べ一千万人を動員。とくに富山県立山町と長野県大町市を結ぶ大町トンネル(関電トンネル)の工事では掘削中、滝のように出水する軟弱な地層「破砕帯」に遭遇。七カ月の苦労の末、八十メートルの破砕帯を突破した。
工事に立ち向かう技師らの姿は、六八年に故石原裕次郎さんが主演した映画「黒部の太陽」でも描かれ、多くの人が知ることになった。
現在は、立山黒部アルペンルートの人気観光スポットの一つとなっている。六月下旬から十月中旬にはダム本体から勢いよく水を放す「観光放水」も実施されており、昨シーズンは八十八万人が訪れた。
☆ 中日新聞 【富山】 2013年6月2日
「プライドかけた戦い」 黒部ダム元作業員が語る
[写真]黒部ダムでの工事を振り返る渡辺さん=立山町前沢で
http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20130602/CK2013060202000031.html
立山 完成50周年を記念
黒部ダム完成五十周年の記念講演会「黒部ダム建設に携わって」が一日、立山町元気交流ステーション(立山町前沢)であり、元作業員の間組(はざまぐみ)(現安藤・間)OB、渡辺春男さん(77)が壮絶な工事となった状況を紹介、「ダム建設はプライドをかけた戦い。勇気と自信を持ち立ち向かうことの大切さを学んだ」と振り返った。地元住民ら百七十人が耳を傾けた。(青木孝行)
渡辺さんは、一九五九(昭和三十四)年から四年間、黒部川第四発電所「くろよん」の建設に従事。間組が請け負っていたダム本体で、コンクリート打設の作業に携わった。
冬場は氷点下二〇度の極寒。火もなかなか起こせず、ほとんど暖も取れないままでの工事に「つらかった」と声を振り絞った。それでも「工期の厳守が至上命題。ダムの底にコンクリートを敷き詰める作業でも効率が求められた」という現場は、絶えず上からの厳しい指示が飛び、「ピリピリした雰囲気。今も覚えている」と思い出を語った。
技術的にも、常にきわどい試みが求められたという。特にダム本体の側面は軟らかい岩盤のため、掘削時の崩落防止が重要課題。このため放射状にダイナマイトを配置、時間差で爆発させるなどの工夫を凝らして衝撃を和らげたことなど、し烈な苦労話を明かした。
講演会は立山町と関西電力が主催し、当時の建設現場の記録映像も上映。あいさつに立った立山町の舟橋貴之町長は「黒部ダム建設をきっかけに、立山黒部アルペンルートができた。観光資源ができ地元に多くの恩恵をもたらしている」、関西電力北陸支社の吉津洋一支社長も「日本の経済を下支えするために安定した電力を供給してきた自負がある」と述べた。
☆ 読売新聞 [富山] 2013.6.6
黒部ダム50年 「負けない精神力引き継ぐ」
[写真]慰霊祭には、関電や工事関係者らが出席した(細野登撮影)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/toyama/news/20130606-OYT8T00008.htm
「世紀の大事業」と言われた黒部ダム(立山町)の完成から50年を迎えた5日、同ダム右岸の殉職者慰霊碑前で「くろよん50周年慰霊祭」が行われた。関係者約30人が、工事中の転落や落盤事故などで犠牲になった171人の冥福を祈った。
ダムを所有する関西電力の社員や工事を行った鹿島建設(東京)や熊谷組(同)など5社の代表者、舟橋貴之・立山町長やダムへのルートがある黒部市、長野県大町市の副市長らが参列。黙とうをささげた後、慰霊碑前に設けられた祭壇で焼香した。
慰霊碑は関電が65年6月に建立したもので、高さ約3メートル、幅約6メートル、奥行き約2メートル。ツルハシやスコップを手に掘削する作業員3人と、頭を垂れて殉職者を悼む作業員3人の姿が表現されている。
祭主としてあいさつした吉津洋一・関電北陸支社長は、「圧倒的なスケールの黒部ダムが生み出す純国産の再生可能エネルギーは日本の経済を支え、観光客を魅了してやまない。(工事に携わった)皆様から受け継いだ困難に負けない精神力をこれから50年、100年先までしっかり引き継いでいく」と誓った。
◇殉職者に「同級生の父」熊谷組社長
黒部ダムの建設工事で、熊谷組は、富山・長野県境の大町トンネル(現関電トンネル)の掘削を担当し、岩の裂け目から大量の冷水が噴き出した約80メートルの破砕帯の突破に成功した。
慰霊祭に駆けつけた同社の大田弘社長(60)は黒部市宇奈月町出身で、小学生の頃に完成した黒部ダムに憧れて入社。「くろよん(黒部ダム)は、熊谷組と私自身を現在まで導いてくれた」と感慨深げに語った。
慰霊碑近くに安置されている、全殉職者の名前が刻まれた銘板には小学校の同級生の父親の名前もあるという。大田社長は「殉職者の方々にはなんと感謝していいか分からない。ダム工事は過去の栄光として語られることが多いが、当事者には地獄のような状況だった。連帯して地獄を突破した気概を、今後も引き継いでいきたい」と話していた。
黒部ダム建設に携わった関西電力OBらで作る「くろよん会」は、ダム完成から50年の節目を迎え、9月の総会を最後に全国組織としての活動を停止することを決めた。会員が高齢化し、亡くなる人も増えているためで、関係者は「寂しいが仕方ない」と話している。
◇関電OB会 9月で活動停止
くろよん会は、1993年のダム完成30年の記念行事に集まったOBを中心に翌年結成。トンネル掘削工事の監督や測量担当者、作業員宿舎の事務員など約420人が会員となった。
関東、近畿、東海、北陸、信濃の5つの支部ごとに毎年集会を開いているほか、5年に1度はダム建設の一大拠点となった長野県大町市で総会を開催。ダムの慰霊碑に祈りをささげたり、懇親会を開いたりしてきた。
しかし、年月の流れと共に、会員の約4割が亡くなったり高齢を理由に退会したりして現在は250人にまで減った。建設当時、黒部川第四水力発電所建設事務所(大町市)に勤務し、くろよん会信濃支部の世話人を務める岩見孝之さん(80)は、総会を今年で最後とすることを提案した。
「50年たっても注目される黒部ダムは我々の誇りで、昔話をしては懐かしんできたが、総会の度に参加者が減っている。前回(2008年)は約120人だったが、今年は100人集まるかどうか。寂しいが、皆の体のことも考えると潮時かなと思う」と語る。
9月の最後の総会の際は、黒部ダムえん堤の慰霊碑に献花する予定だ。その後は、くろよん会の全国規模での活動は行わず、地域レベルでの活動継続の判断は各支部にゆだねるという。
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戦後の「黒四(くろよん)ダム」建設の犠牲者の慰霊祭は、こうして大がかりに行われた。
ダム完成から半世紀を経て関電OB会「くろよん会」は活動を停止する、と読売新聞記事は報じている。半世紀を経て当事者の多くが鬼籍に入ってしまった。
一つの時代の「終わり」なのだろう。
しかし今もまだ無理な理屈をこねて要るはずもないダムが作られようとしている(民主党政権下で作られた検証にならない再検証枠組みで、次々と「ダム事業継続」が決まっていている ※)。
「ダムは正義」イデオロギーはまだ終わっていないのだ。
※ 往時のダム審よりダメな今般の「一斉再検証」
http://tokuyamad.exblog.jp/16002906/
http://tokuyamad.exblog.jp/16003113/
そして、それ以上の問題として、「ダムは正義」だった時代は戦後高度成長期だけではないこと、植民地支配と「ダム」は不可分であったことを忘れてはならない。
全国各地に存在する多くのダムが、戦前・戦中の朝鮮人労働者の犠牲の上に建設された。
だが「慰霊」どころか犠牲者の調査すらも行われたとはいえない。
朝鮮人犠牲はに関する十分な調査と、それに基づく補償がなされない限り、「ダムは正義」だった時代を「終わらせ」てしまうわけにはいかないのだ。
「ダムは正義」だった時代はまだ終わっていない、まだ終わりにできない。
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ダムが正義だった時代、高度成長の見本として、アメリカのTVAやソ連の国土改造が学校教育の中で肯定的に教えられていました。
黒四や御母衣ダムの高額の保障が噂として広まり、徳山では村を二分する厳しい人間関係が出来てしまいました。その亡霊のような徳山ダムは「観光放流」と称するものにしか使われていませんが(変遷を遂げた発電もも問題です)、もし本当に非常用洪水ゲートが使われたら、平時200トンに2200トンと併せて2400トンもの大洪水が起き、横山ダムや西平ダムを通過して、下流の万石地点の洪水時水位5400トンまで下げるどころか、揖斐川沿線の大洪水を引き起こすことになりそうです。