改めて水害訴訟を巡って |
これは、直接的には以下の記事の続きである。
•満面の水 どう使う-朝日新聞記事を巡って- (1)~(3)[ 2015-02-22~23 ]
http://tokuyamad.exblog.jp/23707840/
http://tokuyamad.exblog.jp/23708479/
http://tokuyamad.exblog.jp/23708576/
同時に、全体として
弊ブログ内 カテゴリ:荒崎水害と流域治水 http://tokuyamad.exblog.jp/i11/
の続きでもあり、0120.12.7-8の【長良川「治水」調査行】からの続きでもある。
•2010年12月7-8日 長良川「治水」調査行-1~4[ 2010-12-13~18 ]
http://tokuyamad.exblog.jp/15154146/
http://tokuyamad.exblog.jp/15158819/
http://tokuyamad.exblog.jp/15173415/
http://tokuyamad.exblog.jp/15183264/
(右写真は長良川破堤の現場で。2010.12.7)
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•満面の水 どう使う-朝日新聞記事を巡って- (2)[ 2015-02-22 17:25 ]
http://tokuyamad.exblog.jp/23708479/
の中で以下の論文を紹介した。
荒崎水害訴訟控訴審判決(岐阜県大垣市)に関する判例研究
http://www.kiu.ac.jp/organization/library/memoir/img/pdf/hou20-1-003kohyama.pdf
神山 智美Kohyama Satomi 九州国際大学法学部
九州国際大学法学会 、 九州国際大学法学論集 、 2013年12月
この論文は判決書を基に書かれている。判決書「だけ」を、というべきかもしれない。
行政相手の訴訟ではままあることだが、裁判所が判決書で原告側の主張を正しく要約していないことがある。原告側の主張を理解しないままに判決を書いてしまうのだ。当事者の主張に対してきちんと判断していなければ、本来は上訴において正されるはずである。だが、残念なことに、行政を勝たせた判決に対しては、三審制のチェック機能がまともに機能しかないことが、これもままある-というか、しょっちゅうある。
上記論文に出て来る新川決壊訴訟もその一つである。判決書では、原告・控訴人の主張は曲げられてしまっている。
2012年12月、原告団の解散を前に、新川決壊水害訴訟の原告が開いたシンポで発表されたもの。
新川決壊水害訴訟-争点と原告が明らかにしたこと(2012.12.22)
http://www.tokuyamadam-chushi.net/sonota10/shinkawasuigai20121222.pdf
在間正史弁護士からのメール:
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神山 智美さんの下記判例研究をざっと読みました。
新川決壊水害訴訟についての記述は間違っています。
新川決壊水害は新川流域からの河川流量増大による堤防決潰、あるいは流域湛水による浸水被害ではありません。庄内川から新川への洪水流入(導入)によって新川の流下能力を超えたために堤防が決潰して浸水被害が生じたものです。「住民である控訴人は、原審に同じく、本件浸水被害は、河川の氾濫・破堤の防止のために流域から河川への流入量が抑止されたため、流域で降雨の遊水や滞留が生じ、河川に流入する小河川が氾濫し、これらによる浸水被害が生じたのであり、よって、本件浸水被害は、河川が本来必要な流下機能がないことによる外水被害であると主張した。」(107頁)ことはありません。新川はここで述べられているような浸水被害が生じている河川なので、治水上脆弱な河川であり、このような脆弱な新川に、庄内川左岸からポンプ排水をさせて、それによる水位上昇をなくすために庄内川から洪水導入していることを問題としているのです。
要点は「国の庄内川の河川管理責任(まとめ)」で以下のように述べています。
「庄内川左岸側排水ポンプの停止を組み入れた洗堰の閉鎖と僅かな堤防の暫定嵩上げとを同時進行で行えば、治水事業予算という財政的制約の下で、改修途上河川として最も効果的かつ効率的に、洗堰下流の庄内川を全川にわたって等しい高さ安全度にして、かつ新川の治水安全度も高めることができる。
庄内川の河川管理である河川改修事業において、新川の諸事情、庄内川の外水被害や堤防の安全性の状況と改修事業の進め方、洗堰を閉鎖しても庄内川左岸側のポンプ排水を停止すれば水位の上昇はないことなど、河川改修において考慮すべき事情があるのに、国は、これらを知り少なくともは知り得ながら、あるいは、下流部の堤防嵩上げにおいてこれらの諸事情を当然検討すべきであるにもかかわらず、昭和50年工事実施基本計画や直轄河川改修計画書に新川の計画高水流量など工事実施基本計画として定めなければならない事項すら全く記載しないなど、これらを全く検討せず考慮していなかった。
むしろ、国は、庄内川左岸側の内水排除のためのポンプ排水のために、洗堰を閉鎖せず存続させて、河道流下能力が小さく浸水被害が激しいなど治水上脆弱な新川に洪水を流入させていた。これは、河川改修において本来考慮すべきない事情を過大に配慮して、庄内川左岸側の内水ポンプ排水を格別に優先させていたものである。」
キーワードは「過渡的安全性」で、「過渡的安全性で足りる」ではなく、「過渡的安全性を確保するよう行われなければならない」が新川決壊水害訴訟のテーマです。
なお、新川決潰水害訴訟の登載判例集を読んでも、原告住民の主張は分かりません。なぜなら、裁判所が理解できておらず(あるいは意図的に)、正しく判決書に摘記されていないからです。上記したことは判決書には全く書かれていません。
(以下略)
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水害訴訟といえば、この地域で忘れられないのが、1976年9月12日の長良川右岸の破堤とその訴訟(安八訴訟、墨俣訴訟)である。
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長良川水害訴訟-コトバンク
水害の翌77年、旧墨俣町の800人、安八町の1200人がそれぞれ損害賠償を求めて国を訴えた。安八訴訟で岐阜地裁は82年、「堤防の管理ミス」を認め、住民が勝訴した。しかし、その後「国の河川管理には財政的、時間的制約がある」とする大東水害訴訟の最高裁判決(84年)が出された後、安八訴訟も名古屋高裁(90年)、最高裁(94年)と敗訴した。墨俣訴訟は地裁判決(84年)から敗訴だった。その後、水害訴訟は今年の東海豪雨判決に至るまでほとんど住民敗訴が続く。安八訴訟の地裁勝訴は、国の責任を広く認めていた時代の最後の判例だった。
(2006-09-09 朝日新聞 夕刊 1総合)
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下のPDFファイルは、安八訴訟の原告代理人を務めた在間正史弁護士が、墨俣訴訟1審判決について書かれた論文である。
「技術と人間」1984年11月号在間論文
長良川墨俣水害訴訟判決の忘れたもの-輪中における治水のあり方-
http://www.tokuyamadam-chushi.net/sonota3/1984gijutsuzaima.pdf
( •2010年12月7-8日 長良川「治水」調査行-2[ 2010-12-14 22:05 ]
http://tokuyamad.exblog.jp/15158819/ にリンク)
「河川の特徴に応じて治水は行われるべきものであって、長良川では輪中を抜きに治水を行うことはできない。輪中という長良川の特性に応じてみれば、本破堤箇所は特異なもので、かつその危険性の認識、防除は容易だったのである。
墨俣判決は、河川管理は河川の特徴に応じなければならないという治水の基本を忘れた判決であると言わざるを得ない。この点で安八判決と好対照をなしている。」
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この後、安八訴訟も、高裁で負け、最高裁でも敗訴した。大東水害訴訟最高裁判決の「河川管理の特殊性/技術的・社会的・財政的制約」という言葉が、あらゆる水害訴訟で、河川の具体性徴、水害の具体性を無視する方向でスタンプのごとく使われてきて今日に至っている。
「治水とは水位を下げることなり」「水位を計画高水位より低く抑えることが河川管理のすべて」
いつの間にか、人の命と暮らしを守るということが薄らいでしまった。
技術的・社会的・財政的制約があれえばこそ、値がすべてではないはずだ。
「定量治水・非定量治水」
2010.12.7 今本博健先生治水論
http://www.tokuyamadam-chushi.net/sonota3/101207imamoto.pdf
( •2010年12月7-8日 長良川「治水」調査行-3[ 2010-12-17 14:57 ]
http://tokuyamad.exblog.jp/15173415/ にリンク)
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木蓮の蕾、大分膨らんだ。