丹生ダム やっと終止符(3) |
丹生ダム やっと終止符(2)
http://tokuyamad.exblog.jp/25503921/
から続く。
何度も書いてきたが、1995年-1996年のこと。
「徳山ダム建設中止を求める会」を立ち上げる直前の1995年晩秋10月後半の日曜日、もうほとんどの建物が取り壊された旧徳山村を抜け、冠山峠へののぼりの途中を左に折れて、ダートの林道を走って金草岳の山腹を辿り、ウソ越えを抜けてダートの林道で高倉(こうくら)峠を越えて今庄に出た。(※1)、
※1 今庄には、とてもおいしい蕎麦店が何軒かある。そのうちの1軒は、父親を手伝う4人姉妹が可愛いく、新鮮なお刺身も出すので、休日にはよく行った。冬場は除雪している国道しか通れないが、雪のない季節は、いろいろな峠を越えてドライブするのが楽しみでもあった。
なお、当時は、高倉(こうくら)峠には北陸電力の、滋賀県の木之本町と岐阜県の川上村の間の八草峠には関西電力の揚水ダム計画があり、どちらも「イヌワシが生息している」ことを表の理由として中止となった。隣接している徳山ダムは、イヌワシがいても中止にならず、モニタリングも5年で終わって知らん顔をしている。
今庄からの帰りは、北国街道(国道365号)を通り、栃ノ木峠を越えて近江に入る。いつもはそのまま椿坂峠へと南下するのだが、途中の中河内で、「左折 半明」という標識が目に入った。「はんみょう」という読みに惹かれて、その道に入ってみることにした。
栃ノ木峠看板
結構広い舗装の道路だ。分水嶺近くの川の上流部の山間になんでこんな「立派な」道路があるのだろう?と不思議がっていると、「水資源開発公団丹生ダム建設予定地」の大看板。
「水資源開発のための大型ダム」なんて計画は、徳山ダムが最後に残った亡霊みたいなものか、と思っていたので、本当に驚いた。高時川沿いにさらに下っていくと、鷲見という集落で、何と集落の「離村式」に遭遇してしまった。
何か飲み物が欲しくて、「式」の会場から少し離れた道路沿いにあった店舗らしきところに入った。人はおられたが「もう店はやめた」とのこと。「村がなくなるみたいですね。お寂しいでしょうね」と声をかけたら「別に」と素っ気ないお返事。見知らぬ人間に本音など話すはずはない。
あの「式」に参加していた人たちは、あのお店の人は、今般の「丹生ダム 中止」とないう報をどんなふうに聞いただろうか。
1995年、1996年には参議院で大渕絹子さんが、丹生ダム近くの活断層のことやダム誘発地震(※2)について質問をしていた。その質問を仕掛けた人から、議事録をに紹介された。その方から「琵琶湖総合開発」と丹生ダムの関係を教えられた。
※2 徳山ダムでも湛水による誘発地震を疑わせる現象は起きている。
弊ブログ
• 徳山ダム湛水誘発地震?? その1[ 2009-02 -24 20:29 ]
http://tokuyamad.exblog.jp/10430235/
• 徳山ダム湛水誘発地震?? その2 [ 2009-02 -24 20:43 ]
http://tokuyamad.exblog.jp/10430351/
↑ ここに大渕絹子参議院議員の質問を引用
• 徳山ダム湛水誘発地震?? その3 [ 2009-02 -24 20:47 ]
http://tokuyamad.exblog.jp/10430372/
• 徳山ダム湛水誘発地震?? その4 [ 2009-02 -24 21:00 ]
http://tokuyamad.exblog.jp/10430499/
• 徳山ダム湛水誘発地震?? その5[ 2009-10 -10 00:13 ]
http://tokuyamad.exblog.jp/12095256/
◇ ◇
「水晶」にたとえられた余呉湖を、四六時中曝気しなければもたないようなとんでもない水たまりにしてしまった「琵琶湖総合開発」。
その延長に丹生ダム計画もあった。
2007年5月、余呉町の方に高時川頭首工や余呉湖を案内して頂いた。
翌日、余呉町から帰りに、八草峠を越えて送って頂いた。大回りして湛水中の徳山ダムもみに行った。
・ 2007年5月の徳山ダムのダムサイト。
◇ ◇
私は、建設省/国交省のほうでは「市民運動敵視」的な態度をとられた、というふうには感じていない(やたら警戒して緊張している場面には出逢ったが)。ところが水資源開発公団(水資源機構)プロパーの中には、やたら「固い」「市民運動敵視」が見られた(過去形かどうか?)
こんなことがあった。
ずっと年下の知人K君のこと。
大学卒業時の帰省のとき、亡夫に「大学院落ちちゃって、教授の勧めで水資源開発公団に就職することしたんだ」と報告してきた。亡夫は「公団というところは決められた事業を推進する以外の選択のない組織だ。どんな事態になっても自ら退くという決定をすることができない。水資源開発公団に行くぐらいなら建設省の役人になるほうが遙かにマシだ、留年するつもりで考え直せ」と言った、亡夫は三里塚の空港公団のことを念頭においたのだった。
卒業間近の3月にそんなことを言われても何ともならない。K君は水公団の職員になり、徳山ダム建設中止を求める会を立ち上げた後も、年賀状の交換はしていた。夫が急逝したときは、遠方から葬儀に駆けつけてくれた。
2004年、淀川委関連の琵琶湖河川事務所での会合で、偶然顔を会わせた。「丹生ダム建設所に異動してきた」とのこと。「久しぶりね」と普通に世間話をした。その後も何回か淀川委の会合で顔をみることになった。特に親しげにするのではないが目顔で挨拶くらいはしたし、K君も私も、知り合いであることを隠そうとはしていなかった。
だが、あるとき、丹生ダム建設所長のあまりにもアホくさい発言(=「200年後までを見据えて先行的・長期的に水源開発をする」)に対して、休憩時間中に私が噛みついたことがあった。・・・その後、K君からの賀状が途絶えた。「あのバカ所長がなんぞ言ったに違いない」と私は思っている。
水資源開発公団が水資源機構になったとき、徳山ダム・丹生ダム・川上ダムを含む8つの建設事業以外は、新たなダム建設事業はしない、管理業務に徹する・・・法律のその原則を受け入れられない「古参のプロパー」がヘンに気張って・・・そんな職場、息苦しいだろうな・・・K君は今どうしているだろう?
一人一人の職員が「敵」でなんかあるはずがない。
とっくに「水資源開発」の時代でなくなっているのに、まだ「水資源開発促進法」があり「水資源開発基本計画(フルプラン)」があり続けていることで、水機構の組織内の意識が歪む。
「水資源開発促進法」などという時代錯誤の法律は廃止し、たとえば「水資源適正管理法」とでもうものに改め、水資源機構は、流域住民とともにある施設管理者の道を歩むべきだ。
◇ ◇
1995年秋、徳山ダム建設事業審議委員会が発足する、という動きの中で、偶然に知ってしまった「丹生ダム建設計画」。
徳山ダム建設は止められなかったが、丹生ダムは建設を食い止めることができた、それは素直に喜びたい。
環境面からも財政面からも、「作ってはいけないダム」には違いないのだから。
ただ、ダム計画があってふるさとを離れた人々のことを、その複雑な心境を、考えようとすることなしに、「丹生ダム建設計画という過ち」を総括することはできないだろう。
悪いのはゼネコンだ、官僚だ、政治家だ、と言っているだけでは、同様な過ちを繰り返すことになるに違いないのだから。
この稿、これにて了。
・ 丹生ダム やっと終止符(1)
http://tokuyamad.exblog.jp/25500954/
・ 丹生ダム やっと終止符(2)
http://tokuyamad.exblog.jp/25503921/
・ 丹生ダム やっと終止符(3)
http://tokuyamad.exblog.jp/25506222/
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・ 丹生ダム やっと終止符(1)
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・ 丹生ダム やっと終止符(2)
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・ 丹生ダム やっと終止符(3)
http://tokuyamad.exblog.jp/25506222/