突然の訃報・永井豪さん |
永井豪さんのお葬式のあった6月13日は、真夏の日射しの晴れ上がった日だった。
6月11日の朝、25回目の「さよなら原発パレードinぎふ」の準備をしているときに、「今朝未明に永井豪さんが亡くなられた。つい先日一緒にお食事をしたばかりだったのに」と聞いた。
岐阜新聞を定年退職した後、中京テレビに移って、なお現役のジャーナリストとして取材をしていく気力は旺盛だった。
樺太沖の海馬島、戦後の脱出証言まとめる
http://www.asahi.com/articles/ASJ9X4SRBJ9XOHGB008.html
「海馬島脱出 子どもたちの敗戦記」
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1995年12月末、徳山ダム建設中止を求める会を立ち上げて活動を始めた頃からのお付き合いだった。お付き合い、といっても基本的に取材者-取材対象者として、である。
その距離感を保った上で、彼は”個人として”、徳山ダム建設中止を求める会の会に会費を納める会員になって下さっていた。
お葬式で、初めて豪さんは「ごう」さんではなく、「たけし」さんが戸籍上のお名前だと知った。
しかし彼はメアドに「go」を用いていたから「ごう」さんと呼ばれる方が良かったのかもしれない。
彼は私より1つ年下。
このご時世だからこそ、まだまだ「やり残した」ことがたくさんあるのではないだろうか。
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1967年ジュッパチから50年、というプロジェクトがある。
10・8山﨑博昭プロジェクト
http://yamazakiproject.com/
ちょうどジュッパチのあった1967年、ビートルズが「When I'm Sixty-Four」という歌を作った。
どういう意味にしろ、当時は自分が「64歳になったら」を想像することはできなかった。
しかしすでに64歳をとっくに超えた。半世紀は長いようで短い。
今のトンデモ政権が倒れないどころかますます増長してやりたい放題をやることを、止められていない。「世の中を良くしよう」とあがいてきたはずなのは、すべて幻影で、ただ馬齢を重ねただけだったのだろうか。
いくら世の中全体の寿命が延びたとはいえ、私たちの世代は、あと四半世紀は活動できない。
50年後に何を残せるのか・・・負の遺産だけないものを残したい、伝えたい。
新聞社の社員、テレビ会社の社員はいても、「ジャーナリスト」と言える記者は絶滅危惧種になっている。だから、永井さん、まだ逝くのは早いよ。私たちがあがいてのたうち回って、何とかしようとしている様を、次の世代に伝える仕事をもっともっとして欲しかったのに。
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