6月23日「沖縄慰霊の日」 岐阜でのアクション |
2018年6月23日の「沖縄慰霊の日」。
沖縄2紙の報道に関しては
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岐阜ではこの数年、6月23日に岐阜市の十六銀行本店前歩道で「沖縄慰霊の日」スタンディングアピールを行っています。
今年は、時間を貰ってスピーチをさせてもらいました。(スピーチ内容は下に)
2018.6.24 中日新聞


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沖縄慰霊の日スピーチ 2018.6.23 (近藤)
その後、沖縄タイムスと琉球新報のウェブ記事の中から、基地問題や平和に関する記事を拾って、見出しとURLをこの「沖縄に連帯する会・ぎふ」ウェブにアップしています。3~4日に1回更新していますが、毎回40個以上の記事を拾っています。沖縄では、基地、米軍犯罪や事故、沖縄戦のことなどが、日常的に話題であり続けている現実をヒシヒシと感じます。
私が「沖縄を返せ」の元歌を初めて聴いたのは、大学に入って間もない1968年春、ちょうど50年前です。
強烈な違和感を覚えました。
「民族の怒りに燃ゆる」…この「民族」ってヤマト民族?
「我らの祖先が…守りそだてた」…本土の我らの祖先は沖縄を収奪し蹂躙しました。
「我らのものだ 沖縄は」…アメリカのものではないが、本土の「我らのもの」なのか?
当時の私の沖縄の知識はわずかでしたが、それでも本土の私たちが「我らものだ 沖縄は」というのは違うと感じました。
そして「善意」ではあるのだろうけど、あっけらかんとヤマトゥンチュの視点丸出しの「沖縄返還」運動は、施政権返還が実現したあとは、沖縄を置き去りにしたまま、急速に萎んでしまうだろうと思いました。
でも、まだ20歳(はたち)前後の私には、こうした運動のあり方を変える力はありませんでした。

まだ北部は観光化されておらず、せまい曲がりくねった国道58号線を通って、最北端の辺戸岬をめざしました。 辺戸岬には、1976年に復帰協が建てた「祖国復帰闘争碑」があります。
実際に見るまでは「復帰が叶って良かった」という類いの碑なのだと思っていましたが、全く違いました。長い碑文なのですが、最後の部分を読みます。
一九七二年五月一五日、沖縄の祖国復帰は実現した。
しかし県民の平和への願いは叶えられず、
日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。
しかるが故に この碑は、喜びを表明するためにあるのでもなく、
ましてや勝利を記念するためにあるのでもない。
闘いをふり返り、大衆が信じ合い、自らの力を確め合い、
決意を新たにし合うためにこそあり、
人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが
自然の攝理の下に 生きながらえ得るために
警鐘を鳴らさんとしてある。
これを読んだ時は、本当に胸に突き刺さるものを感じました。
沖縄の人たちは、「復帰」の瞬間から、日米国家権力に対して、また長い闘いが続くことを、はっきりと知っていたのです。

復帰闘争碑の碑文は、40年以上経った今も、過去ではなく、現在を語っています。
「日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用され」というのは、沖縄において、まさに現在進行形です。
ウチナンチュの平和への願いと自己決定権を踏みにじり続ける日本政府。
私たちヤマトゥンチュは、いまだに変えることができていません。
「あなたの行動が”沖縄の民意”を支える」…これに応える行動とは何か。
でも、それだけでは沖縄の自己決定権を保障することにはならない。
私にもまだわからないことが多すぎます、道のりは遠いと感じます。
でも 「諦めない、屈しない」。
この沖縄の人たちの闘いの姿勢に学んで、なすべきことをなしていきたい。
毎年6月23日のこの日、私は、その思いを新たにしています。

