4月15日 大牧冨士夫さんと語り合う会(1) |

上のチラシを、この会の事実上の主催者である高橋恒美さんから頂いた。
大牧冨士夫さんは、1977年から1982年まで「長良川河口堰に反対する市民の会」の機関誌「川吠え」に63回にわたって「徳山ダム通信」を連載された。
「長良川河口堰に反対する市民の会」は1974年代に発足し、1980年代の前半まで長良川河口堰反対の市民運動の中心を担っていた。
高橋恒美さんは、この「川吠え」の編集責任者を務められていたと聞く。
「長良川河口堰に反対する市民の会」に集った方々が、大牧冨士夫さんにお話を聴く機会を設けたい、ご高齢でもあるし、お住まいの北方町に出向いて、という話になったらしい。
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北方町の「わかのや」というお店での集まりであった。




私は「川吠え」が発刊されていたリアルタイムの時期は知らない。
1980年代の終わり、「いよいよ着工」という頃にワっと広がった反対運動の話をの中で「長良川河口堰に反対する市民の会」と「川吠え」のことを耳にした、という程度だった。
1995年末、「徳山ダム建設中止を求める会」を立ち上げたが、徳山ダムに関する資料が非常に少ない中(※)、岐阜市立図書館で大牧冨士夫さんの「徳山ダム離村記」(「川吠え」の連載をまとめて1冊の本にしたもの)に出会い、「技術と人間」誌に掲載された大牧さんのいくつもの論文を参考にさせて頂いた。
※ 「徳山ダム建設中止を求める会」発足の契機となった「徳山ダム建設事業審議委員会」(1995.12~1997.2)は、委員の顔ぶれを見ただけで「建設すべし」の結論ありき委員会であることは明らかであったが、それまで開示されていなかった基本的な資料をパンフレットにまとめ、そのほかにも会議ごとにさまざまな「説明」資料を出した、という意味では”画期的”だったといえる。1997年の河川法改正に至る、建設省内のそれなりの進歩・努力はあった、と私は認めている。その「進歩・努力」は今はどうなっているのか????
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この本については、岐阜大学地域科学部のサイトに以下のように紹介されている。
岐阜大学地域科学部TOP
http://rilc.forest.gifu-u.ac.jp/index.html
TOP >岐阜をめぐる >徳山ダム補償
徳山ダムができるまで-補償交渉の経緯
http://rilc.forest.gifu-u.ac.jp/tokuyamadamuhoshou1.html
・「徳山ダム離村記」大牧冨士夫著 ブックショップ「マイタウン」1991年刊
補償交渉の成り行きを遣る瀬無い思いで見守り続けた苦悩の日々がその想いと共に吐露さています。平穏に暮らしてきた山村の人々にとって、天から降ってきた災難のようなダム建設、自分の故郷がダムの底に沈んでしまう事・村が消えてしまう事、それらを受け入れよと言われても、心情的に受け入れられるものでは、なかったのでしょう。
時代の移り変わりは、この山奥の村にも容赦なく入って来て、それまではお金に頼らずとも、倹しく日々の暮らしを山や田畑からの恵みと、村民の「結」の精神で過ごせてきたものが、電気がともりガスが来て、お金を稼がないことには生活もしづらくなって行った時、そのお金を稼ぐ場所としての村に、村人は多かれ少なかれ、限界を感じていたのかもしれません。現金収入の道は、戦後しばらくはパルプ原料としての材木の切出し作業、その後は公共事業の人工作業等でもたらされてはいましたが、それも一時のこと、公共事業に到ってはダム建設前提のものもあり、その心中は複雑であったことでしょう。
補償交渉にあっては、以後違う場所で、違う生活をしなくてはならない村人にあっては、その不安を購うことのできる唯一のものと言っても過言ではない補償金を、少しでも多く受け取りたいと思う事、それはその場に居た人にしかわからない心情ではありますが、容易に想像がつくことです。
村人との交渉が難航する中でも、外堀を埋めるように、事業は少しずつ進められて行きます。村の人にとっては、ダムができることは既定の路線として理解していた方が殆どでしょう。
昭和37年閣議決定の「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」 これに基づく補償が徳山村にも適用されたのですが、これには、「精神的苦痛にともなう補償については、行わない」ということが定められています。徳山村の人々にとって、一番大きかったのは、まさのこの精神的苦痛に対する補償の有無ではなかったかと思われます。確かに精神的苦痛を金銭に換算することは、個々の差が大きく、その算定に統一基準等作成しようもないことは理解できます。これは全くの私見ですから、的外れもいいとこかもしれませんが、自分たちから故郷を奪うことに対して、申し訳ない、すまないという気持ちを起業者側にもってもらいたかった。そうであるならそれを誠意として精神的苦痛に対して補償をして欲しいという事ではないのかと思います。
補償の歴史として、奥多摩湖に沈んだ小河内村の話がありますが(「日蔭の村」石川達三著 昭和12年刊に書かれています)、この小河内村のことを、「徳山ダム離村記」の著者は思い浮かべて、その時と何の変りもないではないかと嘆いています。

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4月15日 大牧富士夫さんと語り合う会(2)
https://tokuyamad.exblog.jp/30555923/
に続く

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