大垣「水害写真展」と大垣城天守閣 |
https://www.city.ogaki.lg.jp/0000000590.html
の前を通りがかったら「水害写真展」の看板があったので立ち寄ってみた。




2階の展示室に20数枚ほど。








この写真展で、大垣城の天守閣の石垣に「明示29年水害」の水位が刻み込まれていることを知ったので、天守閣周りを探してみた。
天守閣の北西、「水之手門」から入った角に刻まれていた。







◇ ◇
改めて天守閣にのぼってみた。
「藩主は一代で何回かしか天守閣には立ち入らない。内部は梁が剥き出しであるなど、造りは荒く、『優美・優雅』とは程遠かった。天守閣は外観を誇るためのものだったのだ」というような説明があって、なるほど、と思った、

大垣城もそうだが、太平洋戦争による空襲で、多くの天守閣が焼失した。
それが十数年後には「外観だけそっくり」な鉄筋コンクリートでの再建が相次いだ。内部は単なる展示館で無粋でつまらない。
何で「外観だけそっくり」を急いで再建したのか不思議だったが、元々「天守閣は外観を誇るためものだった」のなら、それなりに納得。


◇ ◇
外に出て、もう一度天守閣を見上げる。
天守閣の石垣そのものが、かなり高い盛り土の上にある。その胸高まで水が来た、というのは凄い。
旧城下町(堀の内側)は、周囲に比べて地盤高はかなり高い。「昭和51年の水害」(1976年の安八切れのあった長雨)の際は、「旧城下町の範囲だけ浸水しなかった」と聞いている。


「街の中心部なのに」と感じる人も多いようだが、町名が示す通り「外側」なのである。
大垣城の外堀である水門川の外側なのだから、「丸の内」「郭町」「本町」などより低いのは当たり前。
東外側町の傍の高屋町の大垣駅前通りも水に浸かったが、その写真が「徳山ダム必要論」パンフに使われていた。
「街の中心部は(水害から)安全なはずだ」というのは、単に歴史を知らないからにすぎない。
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今年は木蓮が咲かなかった。割かないまま葉っぱが茂って・・・
6月終わりのあるとき、3階のベランダから何気に見たら、葉の中に埋もれるように、幾つかの木蓮の蕾があった。
ちゃんと花として開かないまま萎んでしまったが。
