2008年 11月 17日
「水辺の祭祀」跡~荒尾南遺跡~② |
「水辺の祭祀」跡~荒尾南遺跡~②
(承前))
広い発掘現場を勝手に歩き回って印象に残ったところ。
(1) 「大溝」が長い年月に渡って改修されながら使われたらしいこと。
「全体図」では直線的に示されているが、今回、かなり人工的に湾曲っせた跡も見つかったらしい。分水工であろうか。
下の写真は大溝から出たものの説明図。これではさっぱり分からない。遠からず(財)岐阜県教育文化財団文化財保護センターのHPに載ると信じたい。
下の左側の写真は大溝から発見された木製の農具。右の写真は水制遺構のあった場所の遠景(傘をさしている人々などが見学者)。手前に農業用水-現代の大溝があったので。遠くほうに霞むのアンテナのある塔の向こう側に「荒崎地区」がある。


(2)「水辺の祭祀」具。

精巧なミニチュア土器は、明らかに祭祀具であろう。何を祈ったのだろうか。干害防止-豊かな流れを祈ったのだろうか?それとも水害-洪水を治めたかったのか?
(3)水制遺構。私は「聖牛」などを連想した。


もともとがどのような形態であったかは分かっていないらしい(説明者-発掘にあたった人-は、「水制工」としてはあり得ないような形態を推測をしていた)。
中部地整岐阜国道事務所が発注者なのだが、例の頑なな縦割りゆえ、河川局-河川部ラインは全く関知していないらしい。河川跡が出てきても川幅の推測もおぼつかない-普通の考古学専門家は土器の年代には詳しくても「川」は分からない-。同じ国交省中部地整ではないのぉ、河川技術者は水の流れの痕跡や水制工のことには詳しいのだから、専門知識を活かしてよ!
それにしても哀しいのは、今の埋蔵文化財に関する制度である。
大きな土木建設事業で、永遠にその遺跡を破壊する(物理的に破壊する・分厚いこコンクリートなどで埋める・ダム底に沈める等)予定があって、初めて予算がつき、発掘調査が行われ、何らかの結果(出土品や、発掘調査による考察など)が残される。
「遺跡がある。大がかりな発掘調査に値するらしい」分かっていても、それだけでは発掘調査には至らない。まずは「お金」… 発掘調査の予算がつかない。また、人家などがあった場合、無理にそれをどかせて発掘調査はできない。大規模(土木)施設建設事業用地となって-ときには強制収用されて-、初めて発掘できるのである。
調査によって「考古学的価値が高い」と、全国的に報道などで騒がれて、建設事業そのものがなくなった例もある(三内丸山遺跡 など)が、希な例でしかない。専門家の間では「貴重な遺跡だ」と評価されながらも、永遠に破壊されてしまったほうが、ずっと数が多いのである。
徳山村で数々発見された遺跡群も、湖底に沈められてしまった。徳山村にあった「寺屋敷遺跡※」は、一通りの発掘調査を終え、ずっと徳山での発掘に携わった人が、調査結果を論文に纏めようとした矢先、不当配転でその場を追われ、結局はその価値を後世に(きちんとした学術的資料として)残すことも不十分なまま、湖底に沈められてしまった。
このことは、まさにこの無念の不当配転に遭った人の以下のHPに。
ちっとばかきばらまいか通信
(「ちっとばかきばらまいか」とは徳山の方言で「ちょっとばかり頑張ろうではないか」という意味。)
このサイトは「2002年の揖斐谷」スライドショーなどもあり、「見る」楽しみも多い。
※ 「ちっとばかきばらまいか通信」サイト内に「寺屋敷遺跡とは?」という1995年段階の篠田通弘氏の論考があります。
(この稿終わり)
(承前))
広い発掘現場を勝手に歩き回って印象に残ったところ。
(1) 「大溝」が長い年月に渡って改修されながら使われたらしいこと。
「全体図」では直線的に示されているが、今回、かなり人工的に湾曲っせた跡も見つかったらしい。分水工であろうか。
下の写真は大溝から出たものの説明図。これではさっぱり分からない。遠からず(財)岐阜県教育文化財団文化財保護センターのHPに載ると信じたい。

下の左側の写真は大溝から発見された木製の農具。右の写真は水制遺構のあった場所の遠景(傘をさしている人々などが見学者)。手前に農業用水-現代の大溝があったので。遠くほうに霞むのアンテナのある塔の向こう側に「荒崎地区」がある。


(2)「水辺の祭祀」具。


精巧なミニチュア土器は、明らかに祭祀具であろう。何を祈ったのだろうか。干害防止-豊かな流れを祈ったのだろうか?それとも水害-洪水を治めたかったのか?
(3)水制遺構。私は「聖牛」などを連想した。


もともとがどのような形態であったかは分かっていないらしい(説明者-発掘にあたった人-は、「水制工」としてはあり得ないような形態を推測をしていた)。
中部地整岐阜国道事務所が発注者なのだが、例の頑なな縦割りゆえ、河川局-河川部ラインは全く関知していないらしい。河川跡が出てきても川幅の推測もおぼつかない-普通の考古学専門家は土器の年代には詳しくても「川」は分からない-。同じ国交省中部地整ではないのぉ、河川技術者は水の流れの痕跡や水制工のことには詳しいのだから、専門知識を活かしてよ!
それにしても哀しいのは、今の埋蔵文化財に関する制度である。
大きな土木建設事業で、永遠にその遺跡を破壊する(物理的に破壊する・分厚いこコンクリートなどで埋める・ダム底に沈める等)予定があって、初めて予算がつき、発掘調査が行われ、何らかの結果(出土品や、発掘調査による考察など)が残される。
「遺跡がある。大がかりな発掘調査に値するらしい」分かっていても、それだけでは発掘調査には至らない。まずは「お金」… 発掘調査の予算がつかない。また、人家などがあった場合、無理にそれをどかせて発掘調査はできない。大規模(土木)施設建設事業用地となって-ときには強制収用されて-、初めて発掘できるのである。
調査によって「考古学的価値が高い」と、全国的に報道などで騒がれて、建設事業そのものがなくなった例もある(三内丸山遺跡 など)が、希な例でしかない。専門家の間では「貴重な遺跡だ」と評価されながらも、永遠に破壊されてしまったほうが、ずっと数が多いのである。
徳山村で数々発見された遺跡群も、湖底に沈められてしまった。徳山村にあった「寺屋敷遺跡※」は、一通りの発掘調査を終え、ずっと徳山での発掘に携わった人が、調査結果を論文に纏めようとした矢先、不当配転でその場を追われ、結局はその価値を後世に(きちんとした学術的資料として)残すことも不十分なまま、湖底に沈められてしまった。
このことは、まさにこの無念の不当配転に遭った人の以下のHPに。
ちっとばかきばらまいか通信
(「ちっとばかきばらまいか」とは徳山の方言で「ちょっとばかり頑張ろうではないか」という意味。)
このサイトは「2002年の揖斐谷」スライドショーなどもあり、「見る」楽しみも多い。
※ 「ちっとばかきばらまいか通信」サイト内に「寺屋敷遺跡とは?」という1995年段階の篠田通弘氏の論考があります。
(この稿終わり)
by tokuyamadam
| 2008-11-17 21:50
| 川と人とまち
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