徳山ダム堤体盛り立てゼロメートル(0m)の小石~2003.6.7~ |
~2003.6.7のこと~
2003年6月7日、「中部の環境を考える会」の野呂弁護士らが徳山ダム工事現場を訪れるのに同行させて貰いました。旧徳山村のHさんとOさんもご一緒でした。
水資源開発公団徳山ダム建設所の案内で、普通は立入禁止のところまで案内して貰いました。このときが丁度「堤体盛り立て開始・堤高ゼロメートル」でした。
写真の石はこのときに拾ったものです。周囲の山は岩盤を出すために掘削され、「ゼロメートル」も、ほぼ整地されていました。しかし、この辺りを熟知しているOさんが整地されきっていない場所の小石を見つけ、「これは揖斐川の河原の石だ」と呟かれました。
私は(案内コースから少し外れましたが)、いくつかを拾ってバッグに入れました。一つ、二つと他人にあげてしまい、今残っているのがこれらの小石です。
この2003年6月7日は、いくつもの意味で記憶に刻み込まれています。
この日は、故・村瀬惣一さんもご一緒でした。「事実」を追及する意欲は誰よりも強く、現場に足を運ぶのが好きだった村瀬さんでしたが、この頃は大分ご病気が進んでいて、「えらい…」と途中で足を止められて座り込んでしまわれ、一番奥までは行かれなかった…そのことも強く心に残っています。
また、この日の中日新聞朝刊が1面トップで「徳山ダム さらに1000億円超」を報じました。2540億円の事業費は、2003年度で底をつく…これは毎年の事業費をウォッチしていれば分かります、だのに2002年まで事業費増額の話は出ていませんでした。
2003年2月に、「今年度の概算要求までに、必ず事業費増額の話が出る。相当の額の増額になるはずだ。ここで徳山ダム問題について世論を喚起しよう」と、私たち(後に「徳山ダムをやめさせる会」となる)は7月12日に名古屋でのシンポジウム(「徳山ダムは名古屋の問題」)を準備していました※。ちょうどチラシを作成しようとしたとき…ある意味では「予測された・良いタイミングのスクープ記事」でした。
※ 03年6月4日付けで、中部地整河川部 山内博・流域調整官宛に 「質問書」を出しています。この質問書提出前から、「どう考えても徳山ダム事業費は、2003年度で底をつく(2004年度には不足になる)。事業費増額には最低限、事業実施計画変更が必要なはず。8月の概算要求まで、もうそんなに時間はないが、いつどうなるのか?」「水資源開発公団は今年度中に独立行政法人水資源機構になるが、水資源機構法法施行令はいつできるのか?内容は?」と、しつこく電話をしていました。山内氏は「本省のほうで詰めていると聞きますが、私のところまでは情報が来ていない、私もよく分からなくて困っています」と繰り返しておられました。これは半分は本当で、半分は「お役人の常套的ムンテラ」の類。
(山内博氏は今年4月に中部地整河川部広域水管理官になられて、またまた「徳山ダム・木曽川水系連絡導水路」担当です(1998年頃も担当でした)。もうこの地位-広域水管理官=河川部長のすぐ下-だと、一介の市民にすぎない私などは、電話で気軽に話をしては頂けませんけど。)
この見学の後、参加者で若干のミーティングとなりました。私以外は木曽川水系に30年以上も関わり続けてきた方々です。
村瀬さんはおっしゃいました。「惜しい。今、村が残っていれば、エコツーリズムとか、山村ならではの活路もあったのではないか、と思う。自分ら(その当時の岐阜県の社会党・総評)が徳山村でダム反対運動を起こそうと誘ったときに、村の人たちは呼応してくれなかった。」
建設省の不合理で身勝手な河川いじくり(ダムや河口堰建設)に対して、まさに一生をかけて闘って来られた村瀬さんです。その言葉は重い。村瀬さんは、一番奥まで歩くことができなかった自らの病状を意識しながら、何らかの意味で知っているHさんやOさんに、「最後にひとこと言っておきたい」と思われたのでしょう。
しかし、Oさんは「あの時に、あなた達は、村人が生きて行く具体的な道筋を示してくれなかったではないか」と鋭くおっしゃいました。村に生まれ、村に住まいながら、徳山ダムの持つ矛盾を冷静に見つめ、発信してきたOさんの言葉もまた重い。
私は、立ち上がって冷房の調節スイッチの傍に行きました。壁際に行くことで溢れ出てしまう涙を皆さんから隠したかったから…。
無念でした、憤りのやり場に戸惑いました、私自身の非力さを噛みしめました。
この日、Oさんから以下のようなメールを頂きました。
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今日はどうもありがとうございました。掘削されたダムサイト予定河床に立って感無量でした。かつて、あのあたり左岸寄りの、水面下1.5㍍ほどに岩が組まれた穴がありまして、魚礁の役割をして、大小のうぐい、鮎が穴の中を回遊していました。子どものころヤスを手にしてそこへいどむのがたのしみでした。周囲の岩肌には、小松が這い、子猿が遊ぶのも珍しくなかったのに。
あの辺りの川底の水のながれ、足をとられそうな渦のあるところ、岩、うぐいのいる水のえぐった窪み、水が堰かれて急流となり、鮎がおどるところ、川底の形は、子どものころ知悉していました。毎日が魚取りで潜っていましたから。そして、そうした、川底の形状は、大雨の後に出水して一変しても、水がひけば元の川底の形になり、うぐい、鮎の潜む岩蔭の水の流れに添って、そのままに姿を現すのでした。つまり、大自然のサイクルに委ねられることで、治水は解決するのです。ダムはそうした自然のサイクルを断ち切るという大罪を侵します。それが今日は言い残しました。
また、村瀬さんの言われたことは胸に響きました。ただ、村瀬さんの指摘は、当時の窮乏した村民の現状へのカルテが含まれていないです。それは、ぼくら、と言っては烏滸がましいですが、ぼくらの側に、都市と山村に住まう者たちの手を結ぶ場さえ見えなかったのでないでしょうか。全国でダム建設を手がけたマニュアルをもって、徳山へ乗り込んできた公団と戦うマニュアルを、たとえば村瀬さんは提示してくれたでしょうか。話してくれたでしょうか。それがぼくたちには出来なかった、とぼくは考えています。
(中略)
ぼくは、井伏鱒二の「朽助」にはなれませんでした。村瀬さんには脱帽します。
今朝(7日付け)の中日記事はびっくりしました。近藤さんのメールで、出るべくして出た事情も少しは分かりました。どうもありがとう。あれは、中部地整が、近藤さんらに名をなさしめる影響をおもんばかってわざとリークしてみせたのでないか、と思いました。お休みなさい。
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(この稿 <余談>に続く)