<余談>徳山ダム堤体盛り立てゼロメートル(0m)の小石~2003.6.7~ |
前稿の<余談>です。
2003年7月12日の名古屋でのシンポジウム(「徳山ダムは名古屋の問題」)の実行委員会が、徳山ダムをやめさせる会の母体になりました。このシンポの取材の記者さんに「実行委員会の代表はどなた?」と訊かれました。全然決めていませんでした。私が伊藤達也さんを、伊藤さんが私を指さしたけど、一瞬私が早かった、「勝ったぜ!」。
そういういい加減さで「徳山ダムをやめさせる会」の伊藤達也代表(後に、在間正史弁護士を加えて共同代表制)を決めたのですが、そうは言っても(関係者は理解している)必然性のあることでした。「愛知・名古屋で運動展開する」ための運動体ですから。
これをきっかけに「徳山ダム建設中止を求める会・事務局ホームページ」
を作成・管理して下さる方が現れました。
グループSURE のHPに、大牧富士夫さんが「ぼくは村の先生だった」を連載しています。
第8回 墓石、古文書、村史 が載りました。
この「墓石」こ、揖斐川の河原石のことが書かれています(小石ではありませんが)。
「ぼくは村の先生だった」は、話が1970年代に差しかかってきました。
「同じときに、私はどこで何をしていたのか」を鮮烈に思い出しつつ読んでいます。
1970年代後半になると「徳山ダム離村記」(「川吠え」の連載を纏めたもの)に繋がってきます。
11月23日に東海テレビが「時代の肖像」特集として「徳山ダム ドキュメンタリー 3本」を放映しました。1977年の「浮いてまう」は、私は知りませんでした。戸入で立入調査を最後に受け容れた平方浩介さんの若き頃が出てきます。今般の放映には、(今の)平方浩介さんと永六輔さんの短い対談が入っています。
「当時、村では『ダム反対』などという声はなかった。考えることもできなかった、ということかな … 若い者は皆村を出て行く、いずれこの村は立ちゆかなくなる、何もなしで出ていくより、ダム補償金を手にして出ていくほうがましだ、そんな雰囲気」(私が聴き取った概略)。
11月26日、約束(公共補償協定)を反故にされた旧徳山村民が起こした訴訟で、平方浩介さんは、原告として法廷で意見陳述を行いました。
(この稿終わり)