旧徳山村民の訴え-ふる里への道を- |

約束を守れ…
11月26日、岐阜地裁で口頭弁論が開かれました。
徳山の人たちが「公共補償協定を何の断りもなく変えて、ふる里への道を奪われたのは納得できない。ふる里への道を」と水資源機構などを訴えている裁判です。
この日、原告の平方浩介さんが意見陳述をされました。
その「要旨」をご本人のご了解を頂いて掲載します。
(右は、11月27日付 毎日新聞記事)
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意見陳述の要旨
平成20年11月26日
原告 平方 浩介
私は、原告の平方浩介です、昭和11年4月に満州で生まれ、生後3か月から中学校卒業までを徳山で過ごしました。東京で高校・大学を卒業後、岐阜に戻って教員となり、29歳のときに徳山に戻って、以後、自分の育った戸入で分校に勤め続けてきました。
徳山は、冬が長く、雪が深く、大変なところではあります。
しかし、私は、進学や就職で徳山を離れている間も、徳山を忘れたことはなく、夏休み、春休みなど、長期の休みには、必ず村に帰ってくるほど、徳山が大好きでした。
四季折々の山の表情、季節季節の農作業での苦楽、そこには、いつも、あたたかい人の絆があり、そこは私にとって、まさに天国でした。自然が豊かで、川ではあまご、鮎などが豊富に漁れました。蛍が家まで入ってきて、子供らと灯りを消してそれを眺め楽しんだものです。当然、私は教師をしながら、徳山の暮らしを子どもたちと楽しみ、子供たちに伝えることが大きな喜びの一つでした。そしてそれが子どもたちの口からそのまた子たちの子孫へと語り伝えられていくことができれば、と思っていたのです。
私だけではありません。村の者たちみんなが、「鳥も通わぬ奥山なれど、住めばよいとこ徳山は」と唄い、こうした村の暮らしを愛してきたものです。
昭和61年、徳山は、ついに廃村ということになりました。みな断腸の思いでした。筆舌に尽くしがたいこの気持ちを、おわかりいただきたいと思います。
そうした私たちにとって、「公共補償協定」によって付替道路が約束され、いつでも「ふる里」に戻ることができること、望郷広場に山林管理施設を建設することが約束され、残った共有地の管理や利用ができること、徳山会館、資料館が造られて、徳山の暮らしが後世に伝えられていくことなどは、理の当然にこととして受けられる償いと信じていました。
しかし水資源開発公団と藤橋村は、平成13年、私たちになんの相談もなく、その補償協定書を変更して、私たちがいつでも自由にそこへ帰り、水底に消えた故郷を偲ぶため、なくてはならない付替道路を建設しないことにしてしまったのです。
私がここで、改めて申すまでもなく、そこの土地につけられた「道」というものは、そこの土地の「命」が持つ「生命体の血管」であります。道を断たれたらその土地は「死」を待つよりほかありません。
私たちと、あの徳山の山河は、変わり果てた姿になったとはいえ血のつながった一つの生命体をなしていると思ってください。その意味をこめて、私たちは、その血管を断たれ、まさに死を宣告されようとしているのです。
私たちは、ダムの建設を受け入れ、「廃村」を受け入れました。しかし、徳山人は、だれひとりふるさとを「捨てる」ことはできなかった。だからこそ、私たちは、最後のよりどころとして、あの「公共補償協定」を結んだのです。
それを、私たちの知らないところで「何の苦もなく」変更してしまった水資源開発公団と藤橋村の行いは、決して許されるものではありません。
私たちにとって、ふる里徳山は、「生命の源」そのものなのです。
私は、戸入に所有地を残しています。付替道路が付いたら、そこに小屋でも建てて、谷でわさびを作ったり、山畑に大根を植えたり、いつでも、好きな釣りをしに行こうと思っていました。仲間たちもまた、「あの辺りに道が付くなら、今は高くて行きがたいトコだけど、あの谷には、山菜もあり魚もおる…」などと、それを生きがいにしてきたのです。今に至ってもまだ老いた身でと笑われるでしょうが、自分ができなければ身内の誰かがと、夢を持ち、その夢がまた大きないきがいとなっているのです。
古くから、私の村では、「人の通る道をふさいだりすると、必ず、タタリがある。」と言われてきました。私は、それを、人間の通り道というものは、そこを往来してきた幾万人ともしれない人たちの暮らしの重みを含みに含んだもので、だから「神格」のようなものを与えられてきたものだと思っています。人の道をふさいで、代わりの道筋も用意するでなく、その道を使ってきた者たちの不便や不幸に耳も貸そうとしないものには、その周囲の者たちも、何ら「助け」の手をさしのべなくなってしまう、仲間の中に入れなくなってしまうといったことが、その理由かと思います。村で暮らすには、仲間に認められないということは、暮らしのセーフティネットを断たれてしまうということですから、タタリ同然の恐ろしさだったのでしょう。
仲間にとってこうした人の迷惑など考えない非道のものは大きな害になりこそすれ、なんの得にもならない「百害あって一利なし」の存在です。
公共補償協定書を「何の苦もなく」変更して、私たちとふる里を結ぶ道を奪った被告の皆さんに、私はその姿を重ねています。被告の皆さんもまた、百害あって一利なしの存在とならぬよう、一日でも早く、公共補償協定の約束を守って、付替道路を造り、私たちに「生命の絆」を返して頂きたい。
申し尽くせないことは、多々ありますが、どうか、あとは、裁判所の賢明なご推察の上に立って、ご裁決くださるよう、お願いいたします。
以上
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平方浩介さんは、戸入分校で子どもを教えながら、児童文学の多数の著作があります。
「じいと山のコボたち」は映画「ふるさと」の原作となりました。
映画「ふるさと」