河川法改正と淀川水系流域委員会-木曽川水系流域住民としての雑感-⑤ ~ 「官僚の善意」 中央集権と地方分権(2) ~ ◇ ◇
脱線ついで:
2003年10月18日未明~深夜にかけて、ある新聞記者と交わしたメール交換(Subject: 河川官僚の「善意」)を「大公開」します、ある種の「官僚論」です。
この2003年10月というのは、徳山ダム事業費「1010億円増額」問題で、この地域では徳山ダムは大揺れに揺れ、改めて徳山ダムが「問題」として一定の注目を集めていました。衆院選もありました-衆院選で、名古屋市あたりではある程度「争点」にもしました(この選挙では、愛知県の各選挙区では、徳山ダム事業に消極的な民主党が自民党を圧した)-※。
ある人が、当会の前のHPサイト
徳山ダム建設中止を求める会・事務局
http://www.tokuyamadam-chushi.net/backnumber/ を立ち上げてくれたのもこの時期です。
※ 同じ新聞でも、名古屋本社版では「1面トップ大見出し」、でも東京本社版では小さい記事が載るか載らないか、という扱いです … いろいろな意味で「見えてる世界が違う」ことを実感しました。
名古屋市・愛知県・岐阜県に一斉監査請求を行ったのが、前日の10月17日です。
毎日のように「何か」を仕掛けていました。
このまっ最中にチョーヒマな(?)長文メール交換(\\O//)。
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From: 近藤ゆり子
Sent: Saturday, October 18, 2003 1:11 AM
Subject: 河川官僚の「善意」
きょうの新聞記事を題材に、国交省のお役人の方々に、「お手紙」を書いていて、ふと思いました。
1995年に建設省河川局が「ダム等審議委員会」を作ったとき、「あんたたち、どんなにひどい(低レベル)の政治家-政治屋に政治を委ね、その結果どんなに低レベルの地方自治体を作り出してしまったか、気づいてよね。いつまでも寝ていないで起きなさい」というメッセージを私たち(のような市民&「市民の側の政策立案」を真面目に考える研究者など)に発するという意識があったとすれば、すごい。
官僚が、そこまで「市民」を信頼してものごとを考えるであろうとは評価して来なかったし、今もしていませんが、もしかして。
河川局官僚が「ダム審」を作ったのは「善意」だ(けれど、作った瞬間に強行お墨付き機関にしかならないものしか作れなかった、官僚の限界)、という私の見方(*)は、ダム審当時もその後も「ダム運動仲間内」では少数派です。
*「技術と人間」(1998年3月号)
今、「市民を起こすために河川官僚は・・・」と言ったら仲間内から袋だたきに遭うだろうな、と自分で笑ってしまいます。 (近藤)
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From: ********
Sent: Saturday, October 18, 2003 11:59 AM
近藤さま
昨日はメールありがとうございました。
河川官僚が「ダム審」を作ったのは「善意」。。は近藤さん自らおっしゃるようにたぶん少数派でしょうね(笑)。私はダム審を作られた官僚と面識がありませんので熱意のほどは分かりませんから何とも言えません。が、私の少ない経験から言うと、官僚は国民、国政のためではなく「自らのため」に動いているんだなあということです。(脱線しますが、私の実家は農家で中学時代は友人と「日本農業を立て直そう」と話し合っていました。ところが農水省は農家や農民のことはこれっぽっちも考えていないと実感し脱力と憤慨したことがあります。政治家、農水官僚、自治体、農協、建設や農機具、農薬などの関連業者の何重ものトライアングル。その中に農民は入っていないと当時感じました)。よく言われますが予算もぶんどり合戦、全部消化に血眼を上げるだけで、もしかしたらコストという認識すらないのではと感じてしまいます。ちょっと言い過ぎかもしれませんが。官僚は出世が命で組織論が強いせいでしょうか。だから、ダム審はメンバーから見るとやはりお墨付きのものだと思わざるをえないなあと。当時は事業評価の走りだった事情があり、良いことには違いありませんがそれも自分たちのアシストに変えてしまう根深さを。やはり「ゼロから見直す」のは当時も今も彼らにとっては「限界」なのではないかと。厳しすぎますか?。
ある程度譲って、作られた当時の官僚が使命感に燃えていたとしても、最終的にOKした上層部は「これは使える」との意識が働いたと想像してしまいます。誤解を恐れずに言えば「人間的には性善説、しかし組織的には性悪説」、、これが私の官僚、公務員観なのです(苦笑)。中にはすばらしい人がいるのも事実ですが。
それから「有権者よ、ウエイクアップ!」は長野時代から私も言い続けていました。しかし、近藤さまも言われた通り、ここが一番ややこしいところですね。長野県では田中知事が出直し知事選で圧勝、その7カ月後に行われた県議選では知事に不信任を突きつけた県議を同じ県民がゾロ再選させてしまう状況は「県民、有権者って?」と考えざるを得ません。相反する行動をためらいもなくスゥーッとやってしまうのが日本国民。自衛隊海外派遣に反対しているのにそれを決断した首相の支持率が高いのもおかしいですよね。言えることは、私たちは有権者に考えてもらう記事を書く、有権者の皆さん考えてと発信続けることでしょうか。戦前のことも考えると危ない状況にありますね。長くなってすみません。(********)
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From: 近藤ゆり子
Sent: Saturday, October 18, 2003 8:50 PM
******** 様
お忙しいところ、ありがとうございます。
> 誤解を恐れずに言えば「人間的には性善説、しかし組織的には
> 性悪説」、、これが私の官僚、 公務員観なのです(苦笑)。
「組織」が(「制度」も)「組織」としてきっちり存在すればするほど、 確実に腐っていく・・・これは体制側であろうと、反体制側であろうと同じ。
「制度」や「組織」抜きには国家も地方公共団体も成り立たない。だからこそ、それを不断に「更新」して行かなければならない。「腐る」ということは、単にスキャンダラスな事柄(カネとか)を指すのではありません。組織された者一人一人が例え「清廉潔白」であっても確実に腐る。組織というものそれ自体がもつ宿命なのだと思います。きっと(私は知識が乏しいので推測)、「権力は必ず腐敗する」というテーゼやアナ・ボル論争などでも多く語り尽くされたことなのでしょう。
官僚たちが、そのことを認識する能力を持っているとは評価していません。まして「更新」を続ける能力は持ち合わせていない。
河川官僚たちの「善意」や「使命感」を認めたとしても(認めれば余計)、自分たちが「秀才という名の究極の無能」であることに気づけない程度の人々だと思っています。
こういうことを言うのは、「もし私が男に生まれていたら」(そういう仮定自体がナンセンスなのですが、子どもの頃にさんざん「あんたは男に生まれれば良かったのに」と言われ続けていたので)、きっと東大法学部→官僚のコースを歩いていただろう、と思うからです。
彼らの思考法や感覚に多くの類似性・親近性を見出してしまいます(ゾッとして苦笑)。「秀才という名の究極の無能」であることに気づけない限り、「良いこと」はほとんどできなくて害悪ばかりを垂れ流す存在にしかなれない。
> ちょっと言い過ぎかもしれませんが。官僚は出世が命で組織論が強いせいでしょうか。
「出世が命」は言い過ぎではありません。「徳山ダムみたいなアホな事業の強行のために身体を張ったりしたら、将来の出世にとってむしろマイナスになる」と河川官僚は考えている、と思っています。彼らにとっては「出世が命」と「善意」は全く矛盾していない。
> だから、ダム審はメンバーから見るとやはりお墨付きのものだと思わざる
> をえないなあと。当時は事業評価の走りだった事情があり、良いことには
> 違いありませんがそれも自分たちのアシストに変えてしまう根深さを。
徳山ダム審の委員の顔ぶれを見たら、「中止も含めて見直す」ということに一縷の希望もないことは明らかでした。委員長の館正知という人は、イタイイタイ病裁判で被告企業側に有利な証拠資料として使われるような論文を書き、川崎公害裁判でも被告建設省側の証人となった人。(ついでに徳山ダム審の委員長の身分のまま、岐阜県知事選-徳山ダムも御嵩町産廃処分場も問題になっている97年の知事選-で梶原拓の選挙母体の顧問になるような人)
今の事業評価監視委員会がそうであるように、官僚は、必ず自分たちの意向(中止することも含めて)に沿う結論が出るようにレールを敷き、そのレールに乗る人を委員に選ぶ。
> やはり「ゼロから見直す」のは当時も今も彼らにとっては
> 「限界」なのではないかと。厳しすぎますか?
徳山ダム審もそうでしたが、まず「計画は正しい」という「ご説明」から始める。徳山ダム審では、実は、その「ご説明」の隙間に問題点を挿入して、計画再検討の可能性を示唆するのですが、基本的に「計画は正しい」という説明なのですから、「問題点」の方は委員の耳には入っていない。多少入ったとしても(公聴会などで市民の側が強調することで)、それに対する表面的な「ご回答」で納得して引っ込んでしまう。官僚の方が「ここに食いついて、こういう意見を出して」とシナリオを書かない限り、審議会等では何も変わらない。
ダム審において、彼らはそれだけの-中止という結論へのシナリオを書く-「力」が無かった。淀川水系流域委では、「原則ダム無しの流域委提言」までは、シナリオ通りだったのですが、その後の巻き返しに屈服しそう、というところです。まさに「限界」。
> 私たちは有権者に考えてもらう記事を書く、有権者の皆さん
> 考えてと発信続けることでしょうか。戦前のことも考えると危な
> い状況にありますね。長くなってすみません。
「報道」が危うい状況にあるからこそ、心強いお言葉です。
コピーして頂いた資料の入力や検討の作業をまだやっていません。19日夕方までにはには、資料検討の上、文章化しておかなくてはならないのですが。こうして「おしゃべり」をしては、「夜なべ」をしています。(近藤ゆり子)
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From: ********
Sent: Saturday, October 18, 2003 11:01 PM
近藤さま。お疲れ様です。
> 「組織」が(「制度」も)「組織」としてきっちり存在すればするほど、 確実に
> 腐っていく・・・これは体制側であろうと、反体制側であろうと同じ。
> 「制度」や「組織」抜きには国家も地方公共団体も成り立たない。だから
> こそ、それを不断に「更新」して行かなければならない。
おっしゃる通りです。政治家で言えば「多選禁止(自粛)法」(条例)が必要なのです。活性化は新人が組織に入ること。国会、地方議会には不可欠です。
> 「秀才という名の究極の無能」。彼らにとっては「出世が命」と「善意」は
> 全く矛盾していない。
今日もある会合で厚生労働省官僚(40代の課長クラス)のプレゼンテーションを聞きましたが無味乾燥、平坦、事務的。。全く楽しくありません。美辞麗句のオンパレードで中身がない(自民党のマニフェスト、重点施策みたい)。上から下にもの申す感じでなんか勘違いしている。たぶん明らかに「優秀」なんでしょう(笑)。「出世」と「善意」は矛盾しない・・・。ご指摘の通りです。官僚だけでなく民間を含めて人間の組織体すべてに当てはまると考えないといけませんね。企業事件も多くがそうです。当然弊社にも。マスコミは数多くの過ちを犯してきたのも事実。特ダネ競争、社内での浮き上がり競争などで書かれる側の論理より書く側の論理が先に行きかねない場面があると私は感じます。若い頃、えん罪事件などをあつかった「犯罪報道の犯罪」、「戦中間のジャーナリズム」などを読み、マスコミの横暴などを実感しましたし。ハンセン病や北朝鮮拉致事件でも当時どの程度の報道をしたのか、報道姿勢はどうだったのかが問われなければなりません。私は出世したいと思いませんが、社の方針がもし違うんじゃないと感じたときどう行動するか。自問しなければいけません。やはり「善意」で行きたいな、一度の人生、後悔したくありませんもの。
またまた長くなりました。お忙しいところすみません。
お体にはお気を付けください。(********)